「李舜臣」の版間の差分

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Tokugawa (会話 | 投稿記録)
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== 文禄・慶長の役 ==
=== 文禄の役 ===
[[1592年]]4月、[[豊臣秀吉]]が朝鮮出兵(文禄の役)を開始すると、[[慶尚道]]の水軍は壊滅したが、李舜臣は残存朝鮮水軍の主導的指揮官の一人として朝鮮水軍を指揮した。緒戦では[[釜山広域市|釜山]]西方の支配領域拡大のために展開していた日本軍後方諸隊の海上移動のための輸送日本船を数次に渡って攻撃し、成功を収めた([[玉浦の戦い]]など)。
 
攻勢主力を釜山から漢城のラインを軸に[[平壌]]・[[咸鏡道]]などに展開していた日本軍は、釜山西方の朝鮮南岸で李舜臣の輸送日本船攻撃が活発になると7月になって[[脇坂安治]]、[[加藤嘉明]]、[[九鬼嘉隆]]を各方面から招集し、海上戦闘用の水軍を編成して李舜臣に対抗する事とした。
 
しかし、抜け駆けで単独進出してきた脇坂水軍を、李舜臣は囮を使って潮流の激しい海峡に誘き寄せて[[閑山島海戦]]で撃破した。続いて脇坂の援護のために安骨浦まで進出して停泊していた加藤・九鬼水軍を襲撃した。この2つの海戦の結果、急造の日本水軍を出撃させて朝鮮水軍に当たる海上戦闘は不利であると悟った秀吉は日本軍勢力範囲の要所に城砦([[倭城]]や[[鉄炮塚]]と呼ばれる砲台)を築いて大筒や[[火縄銃|大鉄砲]]を備え、船対船の積極的な海上攻撃作戦から船対陸の水陸防御作戦へ戦術を変更した。この戦術転換は有効に機能し、以降の李舜臣による日本側の泊地への攻撃は[[釜山浦の戦い|釜山浦攻撃]]、熊川攻撃など被害が多く成果が上がらないために出撃回数は激減した。