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[[Image:Fustel de Coulanges.jpg|thumb|200px|クーランジュ]]
'''ヌマ・ドニ・フュステル・ド・クーランジュ'''(Numa Denis Fustel de Coulanges、[[1830年]][[3月18日]] - [[1889年]][[9月12日]])は、[[19世紀]]の[[フランス]]の中世学者であった
 
== 生涯 ==
祖先は[[ブルターニュ]]出身で、父や祖父は海軍士官をつとめた。[[パリ]]で生まれ、生後1年3ヶ月で父を失う。[[1853年]]に[[高等師範学校 (フランス)|エコール・ノルマル・シュペリウール]]を卒業すると同時に、[[アテネ・フランス学院]]の研究生に選ばれ、2年間を[[アテネ]]で遊学した。この期間で彼がもっとも好んで訪れたのは[[キオス島]]であり、それは処女作「キオス島についての覚書」として結実した。帰国後、5年間を中学教師として過ごし、[[1860年]]には[[ストラスブール大学|ストラスブルク大学]]の教授に任命された。代表作『古代都市 』(『La Cité Antique』は、大学で行われた連続講義によるものであったが、当時クーランジュは無名であり自費出版で600部が公にされたに過ぎなかったという。[[1870年]]に文相であり歴史家でもあった[[ヴィクトール・デュリュイ]]に推薦されて、母校のエコール・ノルマルの教授に任命され、ついで[[1875年]]に[[パリ大学|ソルボンヌ大学]]に転じ、[[1880年]]にはエコール・ノルマルの校長となり、[[1883年]]にソルボンヌに復帰した。学問上の刻苦勉励、過労により病を得て59歳でパリに没する。
 
== 方法 ==
クーランジュの著作群と研究方法は2つに分けられる。
*第1の時期は広い学識を簡明に総合してやさしい形式のもとに表現しようとした時期である。1864年の『古代都市』と1874年の『古代フランス政治制度史』第1巻がそのような特質を代表している。
*第2の時期は、クーランジュの研究に対する批判、つまり古代文献のみを引用して近代における研究に言及しないという批判に答え、同時代の学術成果を詳細に論じ、そのために考証としては確実になったが初期の著作にあった芸術作品のような統一は失われた。1889年の『自主地および地方所有地』や著者の死後に発表された『封地と保護権』はそうした著作の代表とされる。
 
クーランジュは自身の方法を「デカルト的懐疑を史学に適用したもの」と語っている。彼の掲げた史学研究のモットーは
第2の時期は、クーランジュの研究に対する批判、つまり古代文献のみを引用して近代における研究に言及しないという批判に答え、同時代の学術成果を詳細に論じ、そのために考証としては確実になったが初期の著作にあった芸術作品のような統一は失われた。1889年の『自主地および地方所有地』や著者の死後に発表された『封地と保護権』はそうした著作の代表とされる。
 
クーランジュは自身の方法を、「デカルト的懐疑を史学に適用したもの」と語っている。彼の掲げた史学研究のモットーは
 
# 直接に根本史料のみを、もっとも細部にわたって研究すること
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== 著作 ==
*『古代都市』『La Cité antique』1864年
*『フランス制度史 』『Histoire des institutions de la France』1874年
*『Recherches sur quelques problèmes d'histoire』1885年
*『フランク王国の貴族制 』『La Monarchie Franque』1888年
*『L'Alleu et le Domaine rural pendant la période mérovingienne』1889年
*『Questions historiques』1893年