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{{otheruses|後趙の君主第6代皇帝|西晋の政治家|石鑑 (西晋)|}}
{{基礎情報 中国君主
|名 =廃帝 石鑑
|代数 =6
|呼称 =皇帝
|画像 =
|説明 =
|王朝 =後趙(衛)
|在位期間 =[[349年]] - [[350年]]
|都城 =
|諱 =石鑑→李
|字 =大郎
|諡号 =
|廟号 =
|生年 =不詳
|没年 =[[青龍 (後趙)|青龍]]元年([[350年]]
|父 =[[石虎|武帝]]
|母 =鄭氏
|皇后 =
|陵墓 =
|年号 =[[太寧]] : [[349年]]</br>[[青龍 (後趙)|青龍]] : [[350年]]
|注釈 =
}}
'''石鑑'''(せき かん)は、[[五胡十六国時代]]の[[後趙]](衛)の第6代[[皇帝]]。'''石鑒'''とも
 
== 生涯 ==
第3代皇[[石虎]]の三男太祖武帝)の[[庶子]]として生まれる。[[建平 (後趙)|建平]]4年([[333年]])に代王となる。、[[建武 (後趙)|建武]]3年([[337年]])に公となる。建武11年([[345年]])に失政で[[関中]]から[[ギョウ|鄴]]に戻らされた。[[太寧 (後趙)|太寧]]元年([[349年]])に第4代皇帝の[[石世]]が[[石遵]]によって殺され、その石遵も石閔([[冉閔|石閔]]によって殺されると、石閔に擁立されて即位することとなった。石閔を大将軍に任命し、李農を大司馬にそれぞれ任命した。
 
このような経緯から実権は石閔に掌握されており、傀儡皇帝に等しかった。[[石苞 (後趙)|石苞]]に夜襲をさせたが失敗し、石苞は口封じに殺された。石閔に対して、[[石祗]]が[[襄国]]から石閔誅殺の檄を飛ばし、鄴では暗殺計画が発覚した。[[羯族]]石閔兵士3千が胡人の天下の為に石閔を誅殺しようとし、30人が宮中に乗り込んだが全員殺された。石閔は非漢族の武器所有者を斬ると宣言し、大量の非漢族が出て行った。石閔は自分の考えに賛同する者はここにと言うと、近郊の漢族は入城し、非漢族は出て行った。石閔は非漢族が味方にならないと悟り、った石閔は20万人の非漢族を殺した。翌[[青龍 (後趙)|青龍]]元年([[350年]])、閔によって国号を「'''衛'''<ref>『[[資治通]]』による。『[[十六国春秋]]』によると「'''魏'''」。</ref>」と変えられ、石鑑自身も李姓に改めさせられた。石閔と李農が反乱軍の討伐で出た時に、李鑑は宦官を通じて自分の味方を呼び込もうとしたがその宦官から報を受けて軍を返した石閔と李農に殺された。その在位は103日だった。石虎の孫38人も殺され、を含む殺せるだけの石氏は全て殺された。石鑑の在位は103日だった。
 
== 宗室 ==
;父
*太祖武帝([[石虎]])
;兄弟
*[[石邃]](廃太子)
*[[石]](廃太子)
*[[石韜 (後趙)|石韜]]
*[[石世]](廃帝斉公)
*[[石遵]](廃帝彭城王)
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*[[石祗]](新興王)
 
== 脚注 ==
{{先代次代|[[後趙]]の[[中国帝王一覧|天王・皇帝]]|第6代:349年 - 350年|[[石遵|廃帝彭城王]]|[[石祗|新興王]]}}
{{reflist}}
 
{{先代次代|[[後趙]](衛)第6代[[中国帝王一覧|天王・皇帝]]|第6代:349349年 - 350年|[[石遵|廃帝彭城王]]|[[石祗|新興王]]}}
{{DEFAULTSORT:せきかん}}
 
{{DEFAULTSORT:せき かん}}
[[Category:後趙の皇帝|かん]]
[[Category:石氏 (後趙)|かん4世紀生]]
[[Category:350年没]]