「寺田周平」の版間の差分

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|国={{JPN}}
|誕生日={{生年月日と年齢|1975|6|23}}
|出身地=[[神奈川県]][[横須賀市]]
|身長=189cm
|体重=80kg
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== 来歴 ==
[[日産自動車サッカー部]]の下部組織で本格的にサッカーを始める。その後、[[神奈川県立横須賀高等学校]]から[[東海大学]]へ進学。在学中はサッカー部自体は関東2部や神奈川県リーグに所属していたが、[[1995年]]に開催された[[ユニバーシアード]]福岡大会で[[ユニバーシアードサッカー競技|サッカー競技]]代表の中心選手として日本の大会初優勝に貢献し、プロからも注目を浴びる。卒業後は日産サッカー部の後身、Jリーグの横浜マリノス(現在の[[横浜F・マリノス]])への入団が内定していたが、メディカルチェックで[[頸椎]]に問題が発見されて不合格となり、1年間の浪人生活を過ごした<ref>{{cite web|url=http://www.nikkei.com/article/DGXDZO20525400V21C10A2UU8000/|title=七転び八起きのサッカー人生 川崎・寺田 引退模様(4)|work=[[日本経済新聞]]|date=2010.12.30|accessdate=2012.6.30}}</ref>
 
[[1999年]]、Jリーグ2部(J2)の川崎フロンターレに入団。日本には珍しい長身の[[ミッドフィールダー|ボランチ]]で、背番号「6」を与えられて[[開幕戦]]から先発メンバーとして出場した。シーズン途中は負傷により離脱したが、終盤戦に復帰してチームの優勝に貢献した。
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== エピソード ==
*ルーキーイヤーだった1999年、当時の[[松本育夫]]監督をしてから「将来間違いなく代表に入る選手」と言わしめ評価されていた。その言葉は、度重なる怪我による低迷期を経て9年後の2008年に現実のものとなった。
*[[ゴルゴ13]]を愛読している。(スーパーサッカー2009年2月21日放送より) また、背番号13もそれが由来。
*2009年6月に横須賀市長となった[[吉田雄人]]とは県立横須賀高校での同級生である。吉田は横須賀市議時代の2008年4月に寺田が日本代表候補に選ばれた際に自分のブログで祝辞を送り<ref>横須賀市長吉田雄人のユーティング・ブログ!2008年4月18日付記事「寺田周平という英雄」 [http://blog.yuto.net/?eid=625537]</ref>、寺田は吉田が市長選挙で当選した際に共通の知人を通じてメールを送っている<ref>サンケイスポーツ2009年7月4日付記事 [http://www.sanspo.com/soccer/news/090704/sca0907040505003-n2.htm]</ref>。
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*1991年 - 1993年 [[神奈川県立横須賀高等学校]]
*1994年 - 1997年 [[東海大学]]
*1999年 - 2010年 {{Flagicon|JPN}} [[川崎フロンターレ]]
 
== 個人成績 ==
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== 指導歴 ==
*2011年- [[川崎フロンターレ]]
**2011年 トップチームアシスタントコーチ
**2012年 トップチームコーチ
**2013年- 育成・普及コーチ 兼 U-15・13アシスタントコーチ
 
== 脚注 ==
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*[[リスト・オブ・ワン・クラブ・マン]]
 
{{川崎フロンターレのメンバー}}
{{DEFAULTSORT:てらた しゆうへい}}
{{Footybio-stub}}