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[[File:IzuharaKaneIshiJo.jpg|250px|right|thumb|金石城]]
'''金石城'''(かねいしじょう)は、[[長崎県]][[対馬市]][[厳原町]]にあった[[城]]である。市街を挟んで北東隣の桟原城(さじきばらじょう)とあわせて厳原城(いずはらじょう)ともいう<ref>西ヶ谷恭弘著『ポケット図鑑 日本の城』主婦の友社 1995年</ref>。
== 概要 ==
金石城は、[[文禄・慶長の役]]の際に築かれた[[清水山城]]の麓に位置する[[平城]]で、宗氏の居城である<ref name="百選">村田修三 監修『ビジュアル・ワイド 日本名城百選』小学館 2008年</ref>。'''金石屋形'''(かねいしのやかた)と呼ばれる館であったが、[[朝鮮通信使]]を迎えるために、近世城郭に改築したといわれ<ref name="城">平井聖 監修『城 〔8〕九州・沖縄』毎日新聞社 1996年</ref>、[[石垣]]や堀切が廻らされたが、[[天守]]は築かれず1669年(寛文9年)に宗義真によって造られた大手口の櫓門を天守の代用とした。1813年(文化10年)に火災でこの大手門櫓は焼失し、1817年(文化14年)二重櫓門を再建したが、老朽化により[[1918年]]([[大正]]8年)に解体された。
万松院宗家文庫に保存されていた模型を基に、1990年(平成2年)、旧厳原町の “平成の城下町づくり事業”の核として、木造によって二重の櫓門が再び復元された。城跡は、国の[[史跡]]に指定されており、城内で発掘調査された庭園は国の[[名勝]]に指定されている。
また、城内の一角には昭和63年(1988年)に台風によって倒壊した[[桟原城]]大手門(通称、高麗門)が移築復元されている。
 
== 歴史 ==
[[享禄]]元年([[1528年]])に、[[宗将盛]]がこの地に築いた'''金石屋形を築'''(かねしのやか)を始めとする<ref name="城"/>。
 
金石城は、[[文禄・慶長の役]]の際に築かれた[[清水山城]]の麓に位置する[[平城]]で、宗氏の居城であるだった<ref name="百選">村田修三 監修『ビジュアル・ワイド 日本名城百選』小学館 2008年</ref>。'''金石屋形'''(かねいしのやかた)と呼ばれる館であったが、[[朝鮮通信使]]を迎えるために、近世城郭に改築したといわれ<ref name="城">平井聖 監修『城 〔8〕九州・沖縄』毎日新聞社 1996年</ref>、[[石垣]]や堀切が廻らされたが、[[天守]]は築かれず[[1669年]][[寛文]]9年)に[[宗義真]]によって造られた大手口の櫓門を天守の代用とした。1813年(文化10年)に火災でこの大手門櫓は焼失し、1817年(文化14年)二重櫓門を再建したが、老朽化により[[1918年]]([[大正]]8年)に解体されていた。
[[万治]]2年([[1659年]])の大火で市街とともに焼失し、万治3年([[1660年]])に[[宗義真]]によって城下の再建が行われた。寛文5年(1665年)<!--[[寛文]]9年([[1669年]])-->に整備・拡張されて以降は金石城といった<ref name="百選"/>。[[延宝]]6年([[1687]])に新たに[[桟原城]]が築かれ、藩庁としての機能は移動したが、その後も城は存続し、文化年間には焼失した大手櫓を再建している。大正8年(1919年)には大手[[櫓門]]が解体されたが、[[平成]]2年([[1990年]])に古写真や模型などに基づき復元された。
 
[[万治]]2年([[1659年]])の大火で市街とともに焼失し、万治3年([[1660年]])に[[宗義真]]によって城下の再建が行われた。寛文5年(1665年)<!--[[寛文]]9年([[1669年]])-->に整備・拡張されて以降は金石城といった<ref name="百選"/>。[[延宝]]6年([[1687]])に新たに[[桟原城]]が築かれ、[[藩庁]]としての機能は移動したが、その後も城は存続し、[[文化年間]]には焼失した大手櫓を再建している。大正8年(1919年)には大手[[櫓門]]が解体されたが、[[平成]]2年([[1990年]])に古写真や模型などに基づき復元された
敷地の北西隅には「心字池」を作ったとの記録があり(宗家文書)、戦後は厳原中学校の校庭に噴水を有する池があったが、1997年から2004年にかけて史跡の整備、発掘調査とともに園池の発掘と整備が行われた。
 
[[1813年]]([[文化]]10年)に火災でこの大手門櫓は焼失し、[[1817年]](文化14年)二重櫓門を再建したが、老朽化により[[1919年]]([[大正]]8年)に解体された。
 
城内の一角には[[昭和]]63年([[1988年]])に[[台風]]によって倒壊した[[桟原城]]大手門(通称、高麗門)が移築復元されている。万松院宗家文庫に保存されていた模型を基に、[[1990年]][[平成]]2年)、旧厳原町の “平成の城下町づくり事業”の核として、古写真や模型などに基づき木造によって二重の櫓門が再び復元された。城跡は、国の[[史跡]]に指定されており、城内で発掘調査された庭園は国の[[名勝]]に指定されている。
 
敷地の北西隅には「心字池」を作ったとの記録があり(宗家文書)、戦後は厳原中学校の校庭に[[噴水]]を有する池があったが、[[1997年]]から[[2004年]]にかけて史跡の整備発掘調査とともに園池の発掘と整備が行われた。
 
== 脚注 ==