「藤原成親」の版間の差分

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保元3年([[1158年]])、右近衛中将となる。翌年には[[正四位|正四位下]]に叙せられ、越後守の重任も認められた。異母兄の隆季・家明が[[藤原得子|美福門院]]に近く仕えたのに対して、成親は妹が[[藤原信頼]]の妻となっていた関係から信頼と行動をともにするようになり、[[後白河天皇|後白河上皇]]の側近に加わった。後白河院の成親への信頼は厚く、[[男色]]関係にあったとする<ref>「院ノ男ノオボヘニテ」「ナノメナラズ御寵アリケル」(『愚管抄』)</ref>。
 
[[平治の乱]]では藤原信頼とともに武装して参戦する。敗北後、信頼が処刑されたのに対して、成親は妹・[[藤原経子|経子]]が[[平重盛]]の妻であったことから特別に助命され、処分は軽く[[解官]]にとどまった。『[[愚管抄]]』によれば、「フヨウノ若殿上人」<ref>「フヨウ」の意味については「不要」(取るに足らない)の他に、「芙蓉」(美貌)、または「武勇」とする解釈もある(元木泰雄「藤原成親と平氏」『立命館文学』605、2008年)。</ref>とみなされたという。
 
[[永暦]]2年([[1161年]])4月、成親は右中将に還任する。美福門院の死後、後白河院政派と二条親政派の対立は激化しており、後白河上皇は自らの政治基盤の強化を意図していた。しかし同年7月に、[[平時忠]]らによる憲仁親王(後の[[高倉天皇]])立太子の[[陰謀]]が発覚すると、[[二条天皇]]はただちに後白河院の近臣を解官した。成親もその中に含まれており、翌年には召還されるものの昇進は停滞し、二条親政下の政界では雌伏を余儀なくされる。