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江東琴 (会話 | 投稿記録)
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光太夫は、ロシアの進出に伴い北方情勢が緊迫していることを話し、この頃から幕府も[[樺太]]や[[千島列島]]に関して防衛意識を強めていくようになった。
 
その後、光太夫と磯吉は[[江戸]]・[[小石川植物園|小石川の薬草園]]に居宅をもらって生涯を暮らした。ここで光太夫は新たに妻も迎えている。故郷から光太夫ら一行の親族も訪ねて来ており、昭和61年(1986年)に発見された古文書によって故郷の伊勢へも一度帰国を許されていることも確認されている。[[寛政]]7年([[1795年]])には[[大槻玄沢]]が実施した新年会に招待されており、桂川甫周を始めとして多くの知識人たちとも交際を持っていた。

光太夫の生涯を描いた『[[おろしや国酔夢譚]]』などの小説では帰国後の光太夫と磯吉は「鎖国政策の自宅に軟禁され、自由犠牲者」として不幸な扱い生活受け送っていたといイメージがあに描かれているが、生涯幕府の監視下実際あったにせよ以上のように比較的自由な生活を送っており、決して罪人のように扱われていたわけではなかったようである。
 
== 大黒屋光太夫に関わる史料 ==