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{{Otheruses|[[勧修寺流]][[藤原氏]]・[[藤原顕隆]]の子|[[藤原伊周]]の子|藤原顕長 (伊賀守)}}
'''藤原 顕長'''(ふじわら の あきなが、[[永久 (元号)|永久]]5年([[1117年]]) - [[仁安 (日本)|仁安]]2年([[1167年]]))は、[[平安時代]]後期の公卿。[[中納言]][[藤原顕隆]]の三男。母は[[右大臣]][[源顕房]]の娘。初め頼教、ついで顕教、顕長と改名。[[従二位]]・[[中納言|権中納言]]。'''八条中納言'''と号す。子に[[藤原長方|長方]]など。
 
== 経歴 ==
[[天永]]3年([[1122年]])、6歳にして[[従五位下]]に叙爵。以後、[[紀伊国|紀伊]]、[[越中国|越中]]、[[三河国|三河]]、[[遠江国|遠江]]などの[[国司]]を歴任する。[[保元]]3年([[1158年]])に[[参議]]、[[長寛]]2年([[1164年]])に権中納言。
 
[[平治]]元年([[1159年]])の[[平治の乱]]の直後、[[三条殿]]が焼失したことにともない、[[後白河天皇|後白河上皇]]が一時顕長邸に仮の御所を営んでいた。この際に上皇が好んで市井の様子を眺めていた顕長邸の桟敷を、上皇と対立する[[二条天皇]][[親政]]派の[[藤原経宗]]・[[藤原惟方]](顕長の甥)が強引に封鎖したことが上皇の激怒を買い、両名の失脚・配流につながったことは、つとに知られている。
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== 参考文献 ==
*[[国史大系|新訂増補国史大系]] 『[[尊卑分脉]] 第2篇』 [[吉川弘文館]] 黒板勝美、国史大系編修会(編)ISBN 4642003630
*[[新日本古典文学大系]] 43 『[[保元物語]] [[平治物語]] [[承久記]]』 [[岩波書店]] 栃木孝惟、日下力、益田宗、久保田淳 ISBN 4-00-240043-3
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