「ディアーヌ・ド・ポワチエ」の版間の差分

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[[Image:François Clouet 002.jpg|thumb|180px|left|フランソワ・クルーエによる絵]]
1533年、[[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]は[[カトリーヌ・ド・メディシス]]と結婚する。この同盟には強い反対があった。[[メディチ家]]はフランス宮廷の多くの眼から見れば、成り上がり者に過ぎなかったからである。<!--ルイ・ド・ブレゼと 英語版の間違い? 1531年に死去-->ディアーヌは、この選択を支持した。ディアーヌとカトリーヌは実は縁戚関係にあった。2人とも[[ラ・トゥール・ドーヴェルニュ]]のラ・トゥール家の直系の子孫だったのである。<ref>カトリーヌの母方の祖父は、ディアーヌの父方の祖母と兄弟関係にあった。</ref>実際カトリーヌにとってディアーヌは、ライバルであるとともに押し付けがましい年上の従姉妹でもあった。将来の国王夫婦には子供がなく、彼女の支配をカトリーヌが拒絶しているという噂を気遣って、ディアーヌはアンリが妻の寝室を頻繁に訪れるように仕向けた。
 
ディアーヌは[[1551年]]まで彼らの子供たちの教育係を務めた。彼女の娘のフランソワーズはカトリーヌの召使の管理役を務めた。アンリとカトリーヌの間には結局10人の子供が生まれた。一方、たまさかの訪問で、2人の間には子供も無かったにもかかわらず<ref>アンリ2世の庶子を産んだ女性は少なくとも3人おり、[[フィリッパ・ドゥーチ]]、[[ジャネット・ステュアート|フレミング卿夫人]]、[[ニコル・ド・サヴィニー|ニコル・ド・サヴィニ]]である。</ref>、ディアーヌ・ド・ポワチエはアンリの生涯の友であり、この後の25年間も、彼女は彼の人生に大きな影響力を及ぼした([http://www.websters-dictionary-online.org/definition/english/Di/Diane_de_Poitiers.html])。
二人の書簡から推測して、ディアーヌがアンリの愛妾となったのは[[1538年]]のことだと一般に考えられている。
 
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アンリ2世の子どもたちはディアーヌの影響下に育ったとされ、またアンリ2世の長男[[フランソワ2世 (フランス王)|フランソワ]]の妃で[[スコットランド]]女王の[[メアリー (スコットランド女王)|メアリー・ステュアート]]も彼女の影響を強く受けたという。
 
短期間に彼女はかなりの権力を行使した。[[1548年]]には[[ヴァンティノス]](ヴァレンティノアとも表記される)公爵夫人という一流の称号を、ついで[[1553年]]には[[エタンプ]]公爵夫人の称号を得た([http://www.editionsmontparnasse.fr/france/english/cultural_tourism/loire.html])。
 
王がディアーヌに全幅の信頼を置いていたため、王妃カトリーヌはひどく嫉妬に苦しんだ。アンリはディアーヌにフランスのクラウン・ジュエルを預けたり、彼女のためにアネの城を建てたりするだけでなく、カトリーヌ自身も欲しがっていた王室所有の美しい城、[[シュノンソー城]]をディアーヌに与えたのである。しかし王が存命する限り、王妃は無力でこの状態を変えることはできなかった([http://www.editionsmontparnasse.fr/france/english/cultural_tourism/loire.html])。