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しまあじ (会話 | 投稿記録)
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歴史的には、内陸[[ユーラシア]]の[[遊牧民]]の戦術に起源を持つ。この地域の牧民戦士は、遊牧生活の中で身につけた卓越した馬術と[[弓 (武器)|弓]]の技術によって弓騎兵として活躍し、近代的な火砲を基盤とする戦術が普及するまでは、ユーラシア大陸から[[北アフリカ]]にかけての地域でもっとも有力な軍事勢力のひとつであった。
 
近代兵種としては[[ハンガリー王国]]で初めて用いられた[[ユサール]](ハサー、フザール、驃騎兵とも呼ばれる)を示すことが多いが、[[竜騎兵]]や[[猟騎兵]]や[[槍騎兵]]や[[コサック|コサック騎兵]]も含んだ広義の呼び方もある。現在では、軽装甲車両や[[装甲兵員輸送車]]、[[オフロードバイク]]を主に用い、[[偵察]]を主任務とする部隊を軽騎兵 (light cavalry) と呼ぶこともある。
 
[[ポーランド・リトアニア共和国]]の「[[ユサール#ポーランド騎兵|フサリア]]」は当初は軽騎兵であったが、16世紀には赤い[[ベルベット]]の上着に[[白銀]]色の重装備の甲冑をまとい長大な槍を携え、巨大な羽飾りを背中につけ突撃を行う騎兵(右画像)という独特の形態に発展し、18世紀まで活躍した。またポーランドのより軽量な槍騎兵である[[ウーラン]]は18世紀頃から復活した槍騎兵の主流として各国で模倣された。
 
==特徴==
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軽騎兵は古くから用いられており、[[ギリシャ神話]]に登場する[[ケンタウロス]]は馬を操り襲撃を行う[[中央アジア]]の遊牧民を[[モチーフ]]としている。都市文明地帯では馬に曳かれた[[チャリオット|戦車]]が東西を問わず[[青銅器時代]]から[[鉄器時代]]に用いられ、歩兵に対して多大な成果を挙げたが、自在な運動性に乏しく、数をそろえるのに多大な経済力を要することもあって、軽騎兵を主力とした非都市文明域の遊牧民の襲撃にはあまり有効な抵抗はできなかった。その後の戦車の廃止と騎兵の採用に不満を持つものは多く、東西を問わず蛮族と同じように馬に乗ることへの反発は大きかった。[[アレクサンドロス3世]](大王)は軽騎兵を効果的に用いることで知られており、直属の[[重騎兵]]([[ヘタイロイ]])と共に投入してたびたび戦況を逆転させている。[[ローマ帝国]]もガリア人やゲルマン人などの傭兵からなる軽騎兵を効果的に用い、偵察や敵部隊の追撃、迂回挟撃などに使ったが、戦場の主力は[[歩兵]]であり、あくまでも補助が目的であった。
 
ヨーロッパではローマ帝国が解体するにつれ、軍隊の規模は縮小し、騎兵を配下に持つことの重要性が増加した。騎兵の襲撃に有効に対抗できるだけの規律の取れた歩兵の大部隊を維持することが非現実的となり、規律もなく武器も貧弱な寄せ集めの歩兵に対しては、重騎兵の突撃や、部隊の弱点に器用に回りこんで投槍や弓矢で攻撃を仕掛ける軽騎兵の攻撃は大きな破壊力を持ったためである。維持に多額の金がかかる騎兵は、[[領主]]や大地主が騎兵指揮官となることが多かった。中世ヨーロッパでは重騎兵が兵科の花形となり、軽騎兵の地位は低下した。ただしヨーロッパでもロシアやポーランド、ハンガリーなどの東部の地域では平原が多く、中央アジアの騎馬民族の勢力にも近かった為、軽騎兵とそれを用いた戦術が発展しており、のちに[[コサック]][[ウーラン]]、フザールなどの優秀な軽騎兵を生み出す事となる。
 
そもそもヨーロッパや東アジアなど騎兵がそろえにくかった文化圏では、馬を養いそれに騎乗して戦場に赴けること自体が裕福な身分である証であり、装備自体も財力に応じ重装備なものになり、馬の品種も機動力のある品種よりもそうした重量に耐えられる体力のある品種が重要視された為、軽騎兵自体が運用される事が少なかった。