「山木兼隆」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
源利定 (会話 | 投稿記録)
m 山木兼隆
To4roh (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
3行目:
[[検非違使|検非違使少尉]](判官)だったが、父の訴えにより罪を得て(理由は不明)[[伊豆国]]山木郷に流される。[[治承三年の政変]]の後、伊豆知行国主・[[平時忠]]により伊豆国[[目代]]に任ぜられた。
 
『[[曽我物語]]』などによると、伊豆の豪族・[[北条時政]]が[[大番役]]で[[京都|京]]へ上っていた間に娘の[[北条政子|政子]]が[[源頼朝]]と恋仲になり、帰国の道中に兼隆との縁談を進めていた[[時政]]は[[平家]]の怒りを恐れ、[[政子]]を兼隆のもとへ送ろうとするが、勝気な[[政子]]は逃げ出して[[源頼朝]]のもとへ行ってしまう。兼隆は激怒するが、[[頼朝]][[政子]]は[[伊豆山神社|伊豆山権現]]に庇護され手が出せなかったという。ただし、兼隆の伊豆配流は治承3年([[1179年]])の事であり、[[頼朝の長女]]・[[大姫]] ([[源頼朝]]の娘)の生年などから見て、兼隆と[[政子]]との婚姻話は物語上の創作と思われる<ref>[[石井進 (歴史学者)|石井進]] 『日本の歴史 7 鎌倉幕府』 [[中公文庫]]、1974年。</ref>。
 
『[[吾妻鏡]]』では、後に[[政子]]が「闇夜をさまよい、雨をしのいで貴方のところを参りました」と述べており、[[頼朝]]も兼隆に対して「私の意趣がある」と述べている。
 
[[治承]]4年(1180年)8月、[[頼朝]]は[[以仁王]]の[[令旨]]を受け挙兵、兼隆の館を急襲する。[[三島大社]]の祭礼のために郎党の多くが留守だったため兼隆は満足に戦うことができず、[[加藤景廉]]によって討たれた([[石橋山の戦い#山木館襲撃|山木館襲撃]])。
 
== 脚注 ==