「ウィレム・デ・クーニング」の版間の差分

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1904年、オランダの[[ロッテルダム]]に生まれた。青年期は商業美術の会社で働くかたわら、ロッテルダム美術工業学校の夜学で学んだ。オランダ時代には[[ピエト・モンドリアン|モンドリアン]]らの「[[デ・ステイル]]」運動に接している。
 
[[1926年]]渡米。以後、アメリカで活動する。1927年頃、[[アルメニア]]から来た画家、[[アーシル・ゴーキー]]と知り合い、影響を受けた。デ・クーニングは、1930年代半ばまでは、商業美術の仕事で生計を立てていた。また、[[ジャクソン・ポロック|ポロック]]、[[マーク・ロスコ]]ら他の抽象画家たちとともに、WPA([[公共事業促進局]])の[[連邦美術計画]]の仕事にも携わった。連邦美術計画とは、[[ニュー・ディール政策]]の一環として、画家たちに公共建築の壁画の制作等を委嘱したものである。[[1948年]]、ニューヨークのイーガン画廊で初の個展を開催して、ノースカロライナの[[ブラックマウンテン大学]]で教えた。
 
デ・クーニングは、1940年代頃からは人物表現に関心を寄せ始める。1950年代初期から始まった「女」のシリーズがよく知られている。ポロックの「ドリッピング」(絵具をしたたらせる)絵画とは異なり、デ・クーニングの描く「女」はキャンバスに筆で描いたものであるが、感情のおもむくままに筆を走らせたように見える画面は、ほとんど抽象に近付いている。その後、画面から具体的なイメージを排した抽象的な作品を描いていた時期もあるが、1960年代後半から再び「女」のテーマに取り組んでいる。