「津田信澄」の版間の差分

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[[弘治 (日本)|弘治]]元年([[1555年]])、[[織田信行]](信勝)の嫡男として生まれる。
 
弘治3年([[1557年]])、父が謀反の企てを起こしたとして伯父の[[織田信長]]によって暗殺されるたが、幼少の信澄は[[土田御前]](信長と信行の生母)の助命嘆願もあって、信長の命令により[[柴田勝家]]の許で養育された。このこともあって、織田氏を名乗らず[[津田氏]]を称したともいわれる<ref>史料によっては'''織田信澄'''とするものもある。</ref>。その後、信長が[[近江国]]を平定すると、[[北畠氏]]と[[神戸氏]]同様乗っ取り政策の一環として、[[浅井氏]]旧臣で[[高島郡 (滋賀県)|高島郡]]一職を任されていた[[磯野員昌]]の養子となる。
 
信澄は智勇に優れ果断な性格であったため、信長に大変気に入られていた。織田家では信長の息子である[[織田信忠|信忠]]、[[織田信雄|信雄]]、[[織田信孝|信孝]]や信長の弟の[[織田信包|信包]]に次いでその待遇は厚かったという。また、織田氏は一族傍流が非常に多く、信長の実子であっても[[織田信正|信正]]のように冷遇された者もいる中(信正については実在を疑問視する説もある)、二度も信長に背いた弟の遺児が厚遇されているのは、破格の待遇といえた。