「ウグリチのドミトリー」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[File:Feodor I of Russia - Project Gutenberg eText 20880.jpg|thumb|200px|left|フョードル1世]]
[[ファイル:Borisgodunov.jpg|thumb|right|250px230px|ボリス・ゴドゥノフ]]
[[1582年]]、[[イヴァン4世]]が62歳のときに生まれた。
 
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だが、ボリスの治世に、死んだはずのドミトリーを名乗る若者があらわれ(ボリスはこれを「偽ドミトリー」と呼んだ。)、ポーランドの支持を得ながら急速に勢力を拡大し、ボリスはこれに苦慮しながら[[1605年]]に死んだ。
 
ボリスの死後、同年に偽ドミトリー1世がモスクワに迫った際、シュイスキーは自分の調査結果を覆し、皇子は暗殺者の手を逃れて生き延びていたと認め、ボリスの息子[[フョードル2世]]を裏切った。
 
[[File:Dmitry Uglitsky kryshka raki 4.jpg|left|thumb|モスクワのクレムリンにあるドミトリーの像。<br>彼はロマノフ朝時代もずっと聖人として扱われており、この像は全身が金箔で覆われ、[[宝石]]や[[真珠]]がちりばめられている。]]
やがて偽ドミトリー1世の人気が落ち始めると、シュイスキーはさらに再び前言を撤回して、本物のドミトリーは[[ボリス・ゴドゥノフ]]に暗殺されたのだと主張し、[[1606年]][[5月]]に偽ドミトリー1世も裏切り、死に追いやってツァーリの座を奪い取った。
 
シュイスキーは本物のドミトリーが死んでいることを実証するため、[[1606]][[6月3日]]に皇子の遺体をウグリチから[[モスクワ]]に運ばせ、この時、掘り起こされた皇子の遺体は腐敗していなかったとされ、この奇跡によってドミトリーは[[ロシア正教会]]に列聖された。
[[File:Coat of Arms of Uglich (Yaroslavl oblast).png|right|thumb|ウグリチの紋章]]
シュイスキーは本物のドミトリーが死んでいることを実証するため、[[1606年]][[6月3日]]に皇子の遺体をウグリチから[[モスクワ]]に運ばせ、この時、掘り起こされた皇子の遺体は腐敗していなかったとされ、この奇跡によってドミトリーは[[ロシア正教会]]に列聖された。
 
とはいえ、シュイスキーもまた、偽ドミトリー2世によってその治世を苦しめられ、結局はそのせいで[[1610年]]にツァーリの座を退かねばならなかった。
 
[[File:Coat of Arms of Uglich (Yaroslavl oblast).png|right|thumb|ウグリチの紋章]]
[[20世紀]]には、ロシアおよび[[ソ連]]の歴史家の大多数が、ドミトリーは事故死したというシュイスキーの報告に基づいた最初の公式見解が、最も信用できると考えるようになった。
やがて、[[1613年]]にドミトリーの甥にあたる[[ミハイル・ロマノフ]]の即位によって動乱時代は終結し、[[ロマノフ朝]]が成立するところとなったが、その治世に彼を聖人として扱うため、[[1628年]]から[[1630年]]にかけて、モスクワの[[クレムリン]]には全身が金箔に覆われた像が作られたほどだった。
 
ドミトリーの死に関しては、[[20世紀]]になると、ロシアおよび[[ソ連]]の歴史家の大多数が、ドミトリーは事故死したというシュイスキーの報告に基づいた最初の公式見解が、最も信用できると考えるようになった。
 
ドミトリーは現在も、「'''敬虔なる皇子ウグリチのドミトリー'''({{lang|ru|благоверный царевич Димитрий Углицкий}})」として崇敬されており、現在のウグリチの紋章はドミトリーをモチーフにしたものである。