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=== セレウコス朝からローマ時代 ===
{{要出典範囲[[アケメネス朝|アケメネス朝ペルシャ]]から覇権を奪い取った[[マケドニア王国]]の[[アウコクサンドロ3世|アレクサンドロス大王]]が[[紀元前323年]]に没すると、[[ディケメネス朝ドコイ戦争]]と呼ばれる後継者争いが勃発した。{{要出典範囲|アケメネ[[セレウコス朝ペルシャ]]からシリアを奪った際|date=2010年10月}}、パルミラの街は自治に委ねられ、後には独立した。[[紀元前1世紀]]には[[パルティア]]と[[共和政ローマ]]の間の緩衝国として独立を維持し、キャラバンの中継地として繁栄を謳歌した。[[紀元前41年]]にローマの将軍[[マルクス・アントニウス]]がパルミラを征服しようとしたが、パルミラ人はローマ軍接近の情報を得てユーフラテス川の対岸方面に逃げたため失敗した。これは当時、まだパルミラが貴重品をすぐに持って逃げられるような、遊牧民の宿営ほどの規模であったことを示す。一方、当時のパルミラ商人はイタリア海域に船を所有し、インド産の絹の貿易を支配していたとされる<ref>''Terry Jones' Barbarians'', [[テリー・ジョーンズ|Terry Jones]], Alan Ereira</ref>。
 
皇帝[[ティベリウス]](14年 - 37年)の時代、パルミラはローマ帝国の[[シリア属州]]の一部となった。[[106年]]に南にある[[ペトラ]]を都とする[[ナバテア王国]]がローマに征服されるとその通商権はパルミラに移り、ローマ帝国と東方のペルシャ・インド・中国とを結ぶ重要性はこの時期増していった。[[129年]]、ローマの拡大路線を転換した皇帝[[ハドリアヌス]]は視察巡幸の途中にパルミラを訪れた。その魅力にとりこにされたハドリアヌスはパルミラに自由都市の資格を与えパルミラ・ハドリアナ(Palmyra Hadriana)と改名した。