「葛井寺」の版間の差分

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正式名 = |
別称 = '''藤井寺'''、剛琳寺|
札所等 = [[西国三十三所]]第五番<br/>[[河内西国三十三所]]特別客番<br/>[[神仏霊場巡拝の道]] 第59番|
文化財 = 乾漆千手観音坐像(国宝)<br/>四脚門(西門・重要文化財)|
}}
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[[画像:Fujiidera nandaimon1024.jpg|thumb|none|200px|南大門]]
}}
'''葛井寺'''(ふじいでら)は、[[大阪府]][[藤井寺市]]藤井寺一丁目にある[[真言宗御室派]]の[[寺院]]。'''藤井寺'''、剛琳寺とも称する。山号は紫雲山。本尊は[[千手観音]]。[[西国三十三所]]第五番札所。
 
==創建==
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[[百済]][[辰孫王]]の後裔氏族である、[[船氏]]、[[津氏]]とならぶ[[白猪氏]]の氏寺として7世紀中葉に建立が開始された。奈良時代の720年に白猪氏は[[葛井氏]]に改姓している。一族からは[[大安寺]]僧[[慶俊]]が出ている。
 
社伝では、大同元年(807)に[[葛井連道依娘]]の藤子と後の平城天皇との皇子である[[阿保親王]]によって再建された。また阿保親王の皇子である[[在原業平]]が奥の院を造営した<ref>朝日新聞2004年1月30日。[http://inoues.net/osaka/fujiideraa.html 朝日新聞2004年1月30日。]</ref>。
 
中世以前の沿革については史料が乏しく、必ずしも明確でないが、本尊千手観音坐像は奈良時代の作品であり、境内から奈良時代の古瓦が出土することなどから、創建が奈良時代・8世紀頃にさかのぼることは間違いない。境内出土の瓦の1つに[[久安]]3年(1147年)の銘があり、その頃に造営事業が行われたことが推定される。平安時代後期から観音霊場として知られるようになり、西国三十三所観音霊場が成立すると、その一つに数えられるようになった。
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==前後の札所==
;[[西国三十三所]]
:4 [[施福寺]] -<small></small>- '''5 葛井寺''' -<small></small>- 6 [[南法華寺|壺阪寺]](南法華寺)
 
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==交通==
*[[近畿日本鉄道|近鉄]] [[近鉄南大阪線|南大阪線]] [[藤井寺駅]] 徒歩5分
*[[西名阪自動車道|西名阪道]][[藤井寺インターチェンジ|藤井寺IC]]から[[大阪府道・奈良県道12号堺大和高田線|府道12号]]を西へ0.3km3&nbsp;km、小山交差点左折して600mの[[日本電信電話|NTT]]南まで
 
== 脚注 ==
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[[Category:大阪府の寺]]
[[Category:真言宗御室派]]
[[Category:西国三十三所]]
[[Category:勅願寺]]
[[Category:大阪府の重要文化財]]