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==== 歴史 ====
* [[長谷寺]]の[[徳道]][[上人]]が[[養老]]2年([[718年]])、病の床での夢に[[閻魔大王]]が現れ、「世の苦しむ人々のために三十三箇所の[[観音]][[霊場]]を作って巡礼を勧めよ」と言い、起請文と三十三の[[宝印]]を授けた。夢から覚めた上人は宝印に従い三十三箇所の霊場を設けるが、世の信仰を得ることが出来ず発展しなかったため、宝印を摂津[[中山寺 (宝塚市)|中山寺]]で石棺に収めたと伝えられる。
* [[寛和]]2年([[986年]])19歳で出家した[[花山天皇|花山法皇]]は[[比叡山]]で修業の後、三十三箇所観音霊場巡礼を発願し、[[書写山]][[円教寺]]の[[性空]]上人と共に中山寺で石棺の宝印を捜し出して[[永延]]2年([[988年]])に[[紀伊国|紀州]][[熊野]]から宝印の三十三箇所霊場を巡礼し再興を祈願した。これが現在の'''[[西国三十三所]]'''の起源といわれている。
* 熊野への巡礼は、『[[日本書紀]]』の一書に[[イザナミノミコト]]が紀伊国の熊野に[[花窟神社|葬られた]]とされていること、熊野の語源説の一つに「クマ=こもる」で「死者が籠る地」があることで、熊野を死者の国とみる考え方がおこり、平安末期の[[浄土信仰]]における[[極楽浄土]]の地としてとらえた。奈良時代より[[修験道]]の修行地となっていた[[熊野三山]]の[[熊野本宮大社|本宮]]を[[阿弥陀如来]]の[[西方浄土|西方極楽浄土]]、[[熊野速玉大社|新宮]]を[[薬師如来]]の東方浄瑠璃浄土そして[[熊野那智大社|那智大社]]を[[千手観音]]の南方[[補陀落]]浄土として現世の浄土の地と考えることでその信仰が深まったと考えられる。
* [[源頼朝]]が深い観音信仰を持っていたことから西国に倣って'''[[坂東三十三箇所]]'''霊場を発願、[[源実朝|実朝]]の代になって成立したものと考えられている。福島県の[[八槻都々古別神社]]観音像の墨書銘に、僧成弁が三十三箇所巡礼中に[[日輪寺 (大子町)|八溝山観音堂]]での三百日参篭中別当の求めによって[[天福 (日本)|天福]]2年([[1234年]])に観音像を作ったとある。このことからこれ以前に坂東三十三箇所が成立していたとみられる。
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* [[四国八十八箇所]]
* [[日本百観音]]
** [[西国三十三所]]
** [[坂東三十三箇所]]
** [[秩父三十四箇所]]
* [[ベツレヘム]]
* [[エルサレム]]
* [[サンティアゴ・デ・コンポステーラ]]
* [[メッカ]](マッカ)…など多数