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Mariahigh (会話 | 投稿記録)
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9月9日(ユリウス暦では[[1561年]]10月17日、現在のグレゴリオ暦に換算すると[[1561年]]10月27日<ref>[http://maechan.net/kanreki/ 【換暦】暦変換ツール]</ref>)深夜、高坂昌信・馬場信房らが率いる別働隊1万2千が妻女山に向い、信玄率いる本隊8000は八幡原に[[鶴翼の陣]]で布陣した。しかし、政虎は海津城からの炊煙がいつになく多いことから、この動きを察知する。政虎は一切の物音を立てることを禁じて、夜陰に乗じて密かに妻女山を下り、[[雨宮の渡し]]から千曲川を対岸に渡った。これが、[[頼山陽]]の漢詩『川中島』の一節、「鞭声粛々夜河を渡る」(べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる)の場面である。政虎は、[[甘粕景持]]に兵1000を与えて渡河地点に配置し、武田軍の別働隊に備えた。政虎自身はこの間に、八幡原に布陣した。
 
10日(ユリウス暦では[[1561年]]10月18日、現在のグレゴリオ暦に換算すると[[1561年]]10月28日)午前8時頃、川中島を包む深い霧が晴れた時、いるはずのない上杉軍が眼前に布陣しているのを見て、信玄率いる武田軍本隊は愕然とした。政虎は、猛将・[[柿崎景家]]を先鋒に、車懸りの陣(車輪のスポークのように部隊を配置し、入れ替わり立ち替わり次々攻撃する陣形。いわゆる波状攻撃)で武田軍に襲いかかった。武田軍は完全に裏をかかれた形になり、鶴翼の陣(鶴が翼を広げたように部隊を配置し、敵全体を包み込む陣形)を敷いて応戦したものの、信玄の弟の[[武田信繁|信繁]]や[[山本勘助]]、[[室住虎光|諸角虎定]]、[[初鹿野忠次]]らが討死するなど、劣勢であった。
 
乱戦の最中、手薄となった信玄の本陣に政虎が斬り込みをかけた。[[名馬一覧#放生月毛|放生月毛]]に跨がり、[[名刀]]、[[日本刀|小豆長光]]を振り上げた政虎は床机(しょうぎ)に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、信玄は軍配をもってこれを凌ぐが肩先を負傷し、信玄の供回りが駆けつけたため惜しくも討ちもらした。[[頼山陽]]はこの場面を'''「流星光底長蛇を逸す」'''と詠じている。川中島の戦いを描いた絵画や銅像では、謙信(政虎)が行人包みの僧体に描かれているが、政虎が出家して上杉謙信を名乗るのは9年後の[[元亀]]元年([[1570年]])である。信玄と謙信の一騎討ちとして有名なこの場面は、歴史小説やドラマ等にしばしば登場しているが、あまりにも出来すぎているため、創作と考えられることが多い。なお、江戸時代に作成された[[上杉家御年譜]]では、斬りかかったのは[[荒川伊豆守]]だと書かれている。ただし、乱戦かつ上杉軍が攻めなければならない状況や、謙信の性格を考慮すれば、絶対に無かったとまでは言い切れないものがある。また、盟友関係にあった[[関白]]・[[近衛前久]]が政虎に宛てて、合戦後に送った書状では、政虎自ら太刀を振ったと述べられており、激戦であったことは確かとされる。