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{{出典の明記|date=2013年1月}}
'''原 志免太郎'''(はら  しめたろう[[1882年]][[10月4日]] - [[1991年]][[6月18日]])は、かつて男性として日本最高齢だった[[福岡県]]の人物である。<br>[[医者]]として、100歳で『新しい灸学』を出版し、104歳まで[[聴診器]]を持ち、「男性長寿日本一」として108歳で[[逝去]]した。
[[医者]]として、100歳で『新しい灸学』を出版し、104歳まで[[聴診器]]を持ち、「男性長寿日本一」として108歳で[[逝去]]した。
 
1882年10月4日に、原田種紀・トエの[[四男]]として生まれ、父は[[黒田藩]]に仕える武士であったが[[明治維新]]を体験、県庁の役人、しかし失業と不遇の中、これ以上「子」はいらぬと「締め」、志免太と名づけたが[[戸籍]]係の間違いか「郎」が足され「志免太郎」になった。
 
高等小学校卒業後、親元を離れ[[福岡市]]大浜三丁目(現・[[博多区]]大博町)の原三信の医学生となり、独学。検定資格を取り京都府立医専(現・[[京都府立医学]])に入り、卒業。[[九州帝国大学|九州帝大]]医学部で「灸」(きゅう)の研究に取り組み、[[結核]]に感染したウサギに灸をすえたら抵抗力が増すことを突き止めた論文でわが国日本初の「お灸博士」となる。1929年開業、431943年香椎原病院設立、院長の椅子を長男に譲った後も104歳まで聴診器を持ち「生涯一医者」を貫いた。
 
104歳まで医師として患者をみたこと ・灸の研究で[[博士号]]を取った最初の人物 ・であること、[[ホタル]]が[[日本住血吸虫]]の[[宿主]]、[[宮入貝]]の[[天敵]]であると突き止めるなどのホタルの[[生態]]、[[飼育]][[研究]]、[[天皇]]にもホタルの卵、幼虫を献上した ・こと、静岡県の[[風土病]]の[[病原体]]を発見した等々ことなど、業績多岐に亘る。
 
亡くなる約2ヵ月前に男性長寿日本一となる。
 
原志免太郎の[[死去]]により、男性長寿日本一は[[岡儀平]]となった。
 
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[[Category:1882年生]]
[[Category:1991年没]]
[[Category:長寿の人物]]
[[Category:日本の医師]]
[[Category:明治時代の人物]]