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シャムスッディーン・クルトはモンゴル帝国の侵攻時にいち早くモンゴルに帰順して難を逃れており、モンゴルの支配のもとでかつての住民を集め、ヘラートの再建にとりかかった。[[1255年]]、クルト家はホラーサーンの支配権を握った王族[[フレグ]]によってヘラートの世襲統治権を認められ、フレグの子孫がイランに立てた[[イルハン朝]]の宗主権下に服す地方政権[[クルト朝]]を立てた。ヘラートは、現在のアフガニスタン一帯を支配するクルト朝の首都となり、めざましい復興を遂げた。
 
[[1380年]]には中央アジアの新たな支配者[[ティムール]]がヘラートを征服し、首都を失ったクルト朝はまもなく滅び、ティムールの四男[[シャー・ルフ]]が新たな支配者となる。[[1409年]]、ヘラートを中心にホラーサーンの支配を固めたシャー・ルフは首都[[サマルカンド]]を制圧してティムール死後の後継者争いの最終的な勝者となるが、彼はそのままヘラートに留まりつづけたのでヘラートが[[ティムール朝]]の首都となり、その支配のもとでヘラートは歴史上でもっとも繁栄した時代を迎える。[[15世紀]]を通じてヘラートにはティムール朝の中心が置かれ、シャー・ルフや[[スルタン・フサイン]]などの文化・文芸を愛好した君主のもとで多くの建造物が築かれ、[[ペルシア語]]や[[チャガタイ・トルコ語]]で優れた詩文が書かれるなど、東方イスラム世界の文化的な発展の頂点に立った。この時代に[[テュルク|トルコ人]]によって育まれた[[イスラム教|イスラーム文化]]を、[[トルコ=イスラーム文化]]という。[[15世紀]]初頭、[[明]]の[[永楽帝]]の命を受けた[[{{仮リンク|陳誠 (明朝)|en|Chen Cheng (Ming Dynasty)|label=陳誠]]}}が、陸路でこの地(「[[:zh:赫拉特|哈烈]]」と記録されている)を訪れている。
 
しかし、フサイン死後の[[1507年]]にヘラートは[[ウズベク]]の[[シャイバーン朝]]によって征服されたのを皮切りに、[[1510年]]には[[サファヴィー朝]]の[[イスマーイール1世]]が占領するなど、ウズベクとサファヴィー朝による争奪の的となった。この長年にわたった紛争の結果、ヘラートの繁栄は衰え、国境地帯の辺境都市に過ぎなくなっていった。