「マスウード・ベク」の版間の差分

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[[オゴデイ]]が即位すると、父ヤラワチは[[フェルガーナ]]盆地西端の[[ホジェンド|フジャンド]]に設置された[[トルキスタン|トルキスターン]]行政府の財務長官(サーヒブ・ディーワーニー صاحب ديوانى Ṣāḥib Dīwānī)に任じられ、帝国の中部から西方の領土の財務一切を監督するに至った。[[1238年]]、ヤラワチが旧[[金 (王朝)|金朝]]領(ヒターイー)の財務長官として転出すると、マスウード・ベクは父ヤラワチの後任としてトルキスターン行政府の財務長官職を引継ぎ、[[天山ウイグル王国]]、[[ホータン]]、[[カシュガル|カーシュガル]]から[[サマルカンド]]、[[ブハラ|ブハーラー]]に至るまでの地域一帯を統治することとなった。マスウード・ベクは父と同じく財務関係に通暁していたようで、ヤラワチが進めていたトルキスターン、マーワラーアンナフルの戦後復興政策を継続したが、チンギス・カンによって破壊されたブハーラーを都城を新たに建設し直したり、[[セルジューク朝]]以来のムスリム有力者の通例によるものか、自らの名を冠した「マスウーディーヤ مدرسة مسعودية Madrasa Mas‘ūdīya 」という[[マドラサ]]をブハーラーを中心に各地に建設したと伝えられている。
 
[[1241年]]にオゴデイが没しその皇后[[ドレゲネ]]が摂政となったが、ドレゲネとの関係は良好と言えなかったようで、ドレゲネ宮廷での[[アブドゥッラフマーン (モンゴル帝国)|アブドゥッラフマーン]]などの勢力伸長などや、マーワラーアンナフルと所領を近接するチャガタイ王家からの干渉でフジャンドを追放される事態となった。ヤラワチや[[チンカイ]]らチンギス時代から仕えた財政・書記部門の首脳たちの多くも同じような境遇に見舞われていたが、父とチンカイがオゴデイ家の[[コデン]]に匿われたのに対し、マスウード・ベクは[[ジョチ家]]の[[バトゥ]]の庇護を受けた。[[1246年]]にグユクが即位し母后であるドレゲネがこれを見届けた後没すると、アブドゥッラフマーンは処刑され、マスウードはヤラワチやチンカイらとともに再び原職であるトルキスターン行政府の首長として復帰した。その後、グユクとバトゥの係争、皇后[[{{仮リンク|オグルガイミシュ]]|en|Oghul Qaimish}}の摂政とバトゥ、モンケ一統との政争があったものの、バトゥやモンケと通じてこれらの難局を乗り切り、現職を保持し続けた。
 
[[1251年]]、モンケが第4代モンゴル皇帝に即位し、オゴデイ時代の行政区分を引き継いで、旧金朝領一帯を管轄する燕京等処行尚書省、中央アジアのほぼ全域を管轄する別八里等処行尚書省、[[アムダリヤ川]]以西のイラン一帯を管轄する阿母河等処行尚書省の三部門にモンゴル帝国全体の財務行政区を分割したが、マスウード・ベクは従前の管轄をほぼ全て引き継ぐ形でこの別八里([[ビシュバリク]])等処行尚書省の財務長官を任された。