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=== 鋳造活字 ===
[[Image:Movabletype bokei1.jpg|thumb|150px|和文五号活字の電胎母型]]
鋳造活字はまず[[高麗]]で始まによたとてなされている。高麗の[[銅]]活字は、銭の鋳造技術を援用したと考えられており、父型を作り砂型を取って、そこに銅を流し込んで作ったと見られている(百瀬)。[[ヨハネス・グーテンベルク|グーテンベルク]]が開発したものはそれとは異なり、作った父型をまた金属に打ち込んで母型とし、それを枠にはめて[[鉛]]・[[アンチモン]]・[[錫]]の[[合金]]を流し込んで作る、パンチ法と呼ばれる手法であった。グーテンベルクの独創はこの合金の発明にあったといわれる。
 
==== 高麗銅活字 ====
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==== パンチ法 ====
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== 歴史 ==
活字製造技術の中で最も影響力を持ったのは、グーテンベルクに起源を持つ活字であるのは疑いないことである。しかしそれ以外にも活字は作られてきた。この節ではさまざまな活字技術の歴史と、さまざまな文字における活字開発の歴史を俯瞰していく。
 
=== 中国・朝鮮 ===
活字は中国で発明された。漢字の数の膨大さは活版印刷をおこなう上で常に障壁となり、後々までも小規模な設備で印刷をおこなうことを困難たらしめた。このため、活字印刷の淵源は中国での漢字にあるが、漢字最も印行に向かない表記法困難でもあった。
 
『夢渓筆談』に記録が残っているよれば[[畢昇]]の'''[[膠泥活字]]'''(こうでいかつじ)が知られている最古の活字である<ref>カーター: 162-164</ref>。同書によれば、粘土(膠泥)の一字一字の駒に文字を彫り、焼いて活字を得た。必要に応じて数十個まで作られた活字は、韻によって木箱に分納された。陶を使ったのは、木では彼の考案した印刷法にかないためという。[[温州市]]の白象塔から発見された[[北宋]][[崇寧]]年間(1102-1106年)印刷(膠泥活字)の『[[観無量寿経]]』<ref>漆侠編『遼宋西夏金代通史 四』第四章四</ref>が、知られている現存最古の印刷物である。その他、12世紀半ばから13世紀初頭に[[西夏]]で印刷されたと見られる、[[内モンゴル自治区]]の[[エジン旗]]から発見された西夏文字による仏典や[[武威市]]で出土した[[維摩詰所説経]]が現存して
 
1300年代には[[王禎]]が'''[[木活字]]'''を作った。王禎は、韻書にそって字を選び、[[能書家]]に字を書かせ、それを板木に裏返しにのり付けし、工人に彫らせたと記録している<ref>カーター: 166-7。</ref>。木活字版はおもに仏典や学術書などの開版に使われた。木活字は欧州へも伝播した。
 
[[13世紀]]には朝鮮半島や日本へも金属活字や木版が伝わったとみ古くから用いられる。、[[高麗]]末の14世紀後半に印刷された[[直指心体要節]]が現存する世界最古の金属活字本あるといわれている。[[1403年]]に青銅製の活字が作られ('''[[銅活字]]'''と呼ばれる)実用化したといわれている。高麗に於いては発達を見せず、[[李氏朝鮮]]に至ってはじめて本格化した。[[永楽 (明)|永楽]]元年([[1403年]])に[[李成桂]]の命により活字鋳造がはじめられた。このときの字は癸未活字という。その後数回の改刻を経たらしいが、この活字も現存していない。
 
中国では活字技術は元の時代にほぼ消滅した。
 
=== ヨーロッパ ===
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==== 江戸時代 ====
江戸初期には盛行した木活字印刷であるが、その後、版本の主流は、活字ではなく[[版木]]による[[整版]]印刷本に移り変わる。これは、漢字を多用する日本語表記が、近代の活版印刷に際してと異なり、組み直し時間と手間がかり増刷のたびに校正を伴うなど、利便性とコストにおいて劣勢であったことに起因する。一方の整版印刷は、刻工の手で板木を彫るにはコストと手間がかかっても増刷容易であり、版木を蔵する([[蔵版]]する)ことによって、版権も容易に維持できるなどのメリットが大きかった。
 
ただし、そのような状況の中でも、幕末までの間、木活字による印刷出版は主流とはならなかったものの継続された。そのような木活字本を、江戸初期の木活字版と区別するために、'''近世木活字'''本と呼びならわしている。また、幕末には、この近世木活字版による出版は、個々の出版部数は百部以下と少数であったが、一部では非常に盛行した。その理由は、今日の[[私家版]]や[[自費出版]]に相当するような印刷物を出版するのに、木活字版が適していたことによる。
 
増刷さえ行なわない場合に限れば活字版は経済的であり、また整版に比べて多少いびつな文字の並びになったり、凹凸によって文字ごとの濃淡ができたとしても、小部数の出版には木活字版は適していた。当然それらの版本は、一般の書肆が関与した[[町版]]とは異なり、[[写本]]と同様の流通をしていた。また、その特徴として、小部数の発行であったことから、[[幕府]]公儀の許可を得なくても出版することが可能であった。そのため、堂々と書肆の手を経て出版できない類いの思想性を帯びた図書などが、木活字版として出版された。一方、このような形態で出版されたため、公儀の許可を得るための奥付も附されていないのが、近世木活字本の特徴となっている。それ故、「無届内証」による板行という呼び方もされていた。
 
==== 近代 ====