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'''坂田 好弘'''(さかた よしひろ、[[1942年]][[9月26日]] - )は、[[日本]]の元[[ラグビー選手]]である。現在は、[[大阪体育大学]][[教授]]、同大学ラグビー部監督、[[日本ラグビーフットボール協会]]理事、関西ラグビー協会会長を務める。また2012年までは、同大学[[大阪体育大学ラグビー部|ラグビー部]]の監督も務めた。現役時代のポジションは[[ラグビーのポジション|ウィング]]。日本ラグビー史において、最も世界に近づいた選手として知られている。
 
== 来歴 ==
[[大阪府]]出身。[[京都府立洛北高等学校・附属中学校|洛北高校]]から[[同志社大学ラグビー部|同志社大学]]に進学。在学中の1963年、[[ラグビー日本代表|全日本]]のメンバーに初選出される。大学卒業後は、[[近鉄ライナーズ|近畿日本鉄道]](近鉄)に入社。ラグビー部(現[[近鉄ライナーズ]])に入部。
 
[[1968年]]、[[大西鉄之祐]]監督率いる全日本の[[ニュージーランド]]遠征メンバーに選ばれ、[[ラグビーニュージーランド代表|オールブラックス・ジュニア]]相手に4トライを上げ、大金星に貢献。「'''世界のサカタ''':''FLYING WING SAKATA (空飛ぶウィング・サカタ)''」として名を轟かせ、ニュージーランドの「プレイヤーズ・オブ・ザ・イヤー」にも輝く。
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|[[堀越慈]]
|[[ライオン歯磨]](現:[[ライオン (企業)|ライオン]])
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|5
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[[1973年]]のヨーロッパ遠征でも[[ラグビーフランス代表|フランス代表]]相手に1トライを奪った。同年代表を引退。キャップは16。
 
[[1975年]][[1月15日]]に[[国立霞ヶ丘陸上競技場|国立競技場]]で開催された[[日本ラグビーフットボール選手権大会|日本選手権]]の対[[早稲田大学ラグビー蹴球部|早大]]戦を最後に現役引退し[[畿日本道|近鉄]]を退社。
 
その後は、大阪体育大学教授となりラグビー部監督にも就任。ニックネームは「デメ」。現在は(財)日本ラグビーフットボール協会理事、関西ラグビー協会会長。
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[[2007年]]には[[2007 ラグビー・ワールドカップ|W杯]]の開会式に「伝説的選手:ラグビー・レジェンド」の一員として招待される。2007年9月7日、パリ郊外・サンドニにあるスタット・フランス。第6回ラグビーワールドカップの開幕式典に、世界を代表する20人の伝説的な名選手による「ラグビー・レジェンド」が登場すると、8万人の大観衆で膨れ上がった観客席から大声援がわき上がった。元フランス代表主将・名FLジャン=ピエール・リヴ、ウェールズが誇る名SHガレス・エドワーズ、豪州代表主将・名LOジョン・イールズら、そうそうたる顔ぶれの中に、「空飛ぶウィング」として名をとどろかせた坂田好弘がアジア・日本代表として招待され、「ヨシヒロ・サカタ、ジャポン」と紹介された。
 
[[2012年]]6月5日、[[国際ラグビー評議会|国際ラグビーボード]]より日本人ラグビー選手として初となる『[[ラグビー殿堂|国際ラグビー殿堂]]』競技者顕彰者に選出された<ref>[http://sankei.jp.msn.com/sports/news/120605/oth12060518220007-n1.htm 坂田氏が日本人初の殿堂入り IRBが選出] 産経新聞 2012年6月5日閲覧</ref>。同年9月15日、2012年度シーズンを最後に、大体大監督を退任する意向を明らかにした<ref>[http://www.nikkansports.com/sports/news/f-sp-tp0-20120915-1017328.html 殿堂入り大体大・坂田監督が退任へ] - 日刊スポーツ 2012年9月15日付</ref>。そして12月23日の、[[全国大学ラグビーフットボール選手権大会|大学選手権]]セカンドステージ・対[[早稲田大学ラグビー蹴球部|早稲田大学]]戦([[近鉄花園ラグビー場]])をもって、監督を退任した
 
== 参考文献 ==