「デニス・エカーズリー」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
37行目:
== 経歴 ==
=== クリーヴランド・インディアンズ ===
{{by|1972年}}の[[MLBドラフト]]で[[クリーヴランド・インディアンズ]]から3巡目に指名を受け入団。{{by|1974年}}はAA級で14勝3敗・防御率3.40を記録。{{by|1975年}}[[4月12日]]の[[ミルウォーキー・ブルワーズ]]戦でメジャーデビュー。デビューから10試合で1勝2セーブ・防御率0.00を記録し、メジャー初先発となった[[5月25日]]の[[オークランド・アスレティックス]]戦で完封勝利。以降[[先発ローテーション]]入りし、新人ながら13勝7敗・防御率2.60の好成績を記録するが、[[ルーキー・オブ・ザ・イヤー (MLB)|ルーキー・オブ・ザ・イヤー]]の投票では得票なしだった。{{by|1976年}}は初の[[開幕投手]]を務めるが、前半戦は4勝8敗・防御率4.95と不調。[[8月13日]]の[[テキサス・レンジャーズ]]戦では敗戦投手となるもののキャリアハイの14奪三振を記録するなど後半戦で防御率2.41と調子を上げ、13勝12敗・防御率3.43、キャリアハイの200奪三振を記録した。{{by|1977年}}は[[5月30日]]の[[カリフォルニア・エンゼルス]]戦で[[ノーヒットノーラン]]を達成。[[1977年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]に選出されるなど14勝を記録した。{{by|1978年}}開幕直前の[[3月30日]]に4選手との交換トレードで、[[フレッド・ケンドール]]と共に[[ボストン・レッドソックス]]に移籍。
 
=== ボストン・レッドソックス ===
4月は0勝だったが5月に5勝を挙げるなど前半戦で10勝を記録。後半戦で防御率2.62・11完投と調子を上げ、リーグワーストの30被本塁打ながら20勝8敗・防御率3.02・16完投を記録。チームは一時[[ニューヨーク・ヤンキース]]に最大14ゲーム差を付けるが9月に逆転され、シーズン最終戦に同率で並ぶものの、ワンゲームプレーオフで敗れてリーグ優勝を逃した。[[サイ・ヤング賞]]の投票では4位に入る。{{by|1979年}}は[[7月11日]]から7連続完投を含む8連勝。直後から5連敗を喫するが、17勝10敗・防御率2.99・17完投の好成績。{{by|1980年}}は開幕から不調で5連敗を喫し、5月に離脱するなど12勝14敗に留まる。{{by|1981年}}は[[メジャーリーグベースボール#ストライキ|ストライキ]]の影響で9勝。{{by|1982年}}は5年ぶりに[[1982年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]に選出されて先発投手を務め、13勝。{{by|1983年}}は5年連続で開幕投手を務めるが不安定な投球が続き、9勝13敗・防御率5.61と不振に陥る。{{by|1984年}}[[5月25日]]に[[ビル・バックナー]]との交換トレードで、1選手と共に[[シカゴ・カブス]]に移籍。
同年に20勝、翌{{by|1979年}}に17勝を挙げるが、その後{{by|1980年}}から{{by|1984年}}は不調が続き、通算で43勝48敗に終わる。
 
=== シカゴ・カブス ===
1984年に[[ビル・バックナー]]との交換トレードで[[シカゴ・カブス]]に移籍。シカゴ在籍中、打者として通算4本の本塁打を放つ。投手としても復活を果たすが、{{by|1986年}}に6勝11敗、防御率4.57と再び不調に陥る。後に野球殿堂入りのスピーチで、彼はこの時期、アルコール依存症によって苦しんでいたことを告白する。
移籍後も当初は不安定だったが徐々に復調。10勝・防御率3.03を記録し、チームの地区優勝に貢献。[[サンディエゴ・パドレス]]との[[1984年のナショナルリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]では2連勝で王手をかけた後の第3戦に先発したが、6回途中5失点で敗戦投手。チームはその試合から3連敗で39年ぶりのリーグ優勝を逃した。オフに[[フリーエージェント (プロスポーツ)|フリーエージェント]]となるが再契約。{{by|1985年}}は好調だったが途中故障で離脱するなど11勝。{{by|1986年}}は6勝11敗・防御率4.57と不本意な成績に終わる。後にこの時期[[アルコール依存症]]によって苦しんでいたことを告白した。{{by|1987年}}開幕直前の[[4月3日]]にマイナー3選手との交換トレードで、1選手と共に故郷の[[オークランド・アスレティックス]]に移籍。
 
=== オークランド・アスレティックス ===
{{by|1987年}}に[[オークランド・アスレチックス]]にトレードされてからは、当時の[[トニー・ラルーサ]]監督の方針により[[リリーフ]]としての登板が多くなり、当時のクローザーである[[ジェイ・ハウエル]]の故障によってクローザーに指名される。長い髪をなびかせ、サイドスローから放る切れ味鋭いスライダーを武器に、{{by|1992年}}に7勝51[[セーブ]]を挙げ[[サイ・ヤング賞]]と[[アメリカンリーグ]]の[[最優秀選手 (MLB)|MVP]]に選ばれた。1987年から1992年までのシーズンで、通算236セーブを挙げ、防御率は3点台前半以下を維持する。彼の特徴である図抜けたコントロールが発揮され、{{by|1989年}}には57.7イニングで許した四球はわずか3。{{by|1990年}}には73.3イニングで4であった。クローザーとしてMVPとサイ・ヤング賞の同時受賞を果たしたのは[[ローリー・フィンガーズ]]({{by|1981年}})に続き2人目である。ちなみにクローザーとしてサイ・ヤング賞を受賞したのは、エカーズリー、フィンガーズの他、[[エリック・ガニエ]]({{by|2003年}})がいる。
移籍後は監督[[トニー・ラルーサ]]の方針によってリリーフに転向し、[[ジェイ・ハウエル]]の故障に伴い[[クローザー]]に昇格する。同年は6勝8敗16セーブを記録し復活。{{by|1988年}}は開幕から12連続セーブを記録し、6年ぶりに[[1988年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]に選出される。4勝2敗45セーブ・防御率2.35の成績で[[最多セーブ投手 (MLB)|最多セーブ]]のタイトルを獲得し、チームの地区優勝の原動力となる。古巣レッドソックスとの[[1988年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]では全4試合に登板して4セーブを記録し、14年ぶりのリーグ優勝に貢献。[[ロサンゼルス・ドジャース]]との[[1988年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]では第1戦で1点リードの9回裏に登板、簡単に2死を取ったものの次打者に四球で出塁を許し、代打[[カーク・ギブソン]]に逆転サヨナラ2点本塁打を浴び、痛恨のセーブ失敗。圧倒的有利と予想されたチームは勢いに飲まれ、1勝4敗で敗退した。サイ・ヤング賞の投票では[[フランク・ヴァイオーラ]]に次ぐ2位、[[最優秀選手 (MLB)|MVP]]の投票では5位に入った。{{by|1989年}}は故障で1ヶ月半離脱するが、4勝33セーブ・防御率1.56を記録。57.2イニングで僅か3四球と抜群の制球力を発揮し、チームは地区連覇。[[トロント・ブルージェイズ]]との[[1989年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]では3セーブを記録し、リーグ連覇を果たす。「[[サンフランシスコ・ベイエリア|ベイエリア]]・シリーズ」となった[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]との[[1989年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]では[[ロマ・プリータ地震]]によって10日間中断するが、第4戦でセーブを記録し4連勝で自身初のワールドチャンピオンに輝いた。{{by|1992年}}に7勝51[[セーブ]]を挙げ、サイ・ヤング賞とMVPに選ばれた。クローザーとしてMVPとサイ・ヤング賞の同時受賞を果たしたのは[[ローリー・フィンガーズ]]({{by|1981年}})に続き2人目である。ちなみにクローザーとしてサイ・ヤング賞を受賞したのは、エカーズリー、フィンガーズの他、[[エリック・ガニエ]]({{by|2003年}})がいる。
 
{{by|1998年}}に引退、{{by|2004年}}に[[アメリカ野球殿堂|野球殿堂]]入り。通算390セーブはメジャーリーグ歴代5位。通算1,071試合登板は[[ホイト・ウィルヘルム]]の通算1,070試合を更新する当時のメジャー記録だった。{{by|2005年}}には[[オークランド・アスレチックス]]から自らの背番号『'''43'''』を永久欠番に指定された。