「デニス・エカーズリー」の版間の差分

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=== ボストン・レッドソックス ===
4月は0勝だったが5月に5勝を挙げるなど前半戦で10勝を記録。後半戦で防御率2.62・11完投と調子を上げ、リーグワーストの30被本塁打ながら20勝8敗・防御率32.0299・16完投を記録。チームは一時[[ニューヨーク・ヤンキース]]に最大14ゲーム差を付けるが9月に逆転され、シーズン最終戦に同率で並ぶものの、ワンゲームプレオフで敗れてリーグ地区優勝を逃した。[[サイ・ヤング賞]]の投票では4位に入る。{{by|1979年}}は[[7月11日]]から7連続完投を含む8連勝。直後から5連敗を喫するが、17勝10敗・防御率2.99・17完投の好成績。{{by|1980年}}は開幕から不調で5連敗を喫し、5月に離脱するなど12勝14敗に留まる。{{by|1981年}}は[[メジャーリーグベースボール#ストライキ|ストライキ]]の影響で9勝。{{by|1982年}}は5年ぶりに[[1982年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]に選出されて先発投手を務め、13勝。{{by|1983年}}は5年連続で開幕投手を務めるが不安定な投球が続き、9勝13敗・防御率5.61と不振に陥る。{{by|1984年}}[[5月25日]]に[[ビル・バックナー]]との交換トレードで、1選手と共に[[シカゴ・カブス]]に移籍。
 
=== シカゴ・カブス ===
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=== オークランド・アスレティックス ===
移籍後は監督[[トニー・ラルーサ]]の方針によってリリーフに転向し、[[ジェイ・ハウエル]]の故障に伴い[[クローザー]]に昇格する。同年は6勝8敗16セーブを記録し復活。{{by|1988年}}は開幕から12連続セーブを記録し、6年ぶりに[[1988年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]に選出される。4勝2敗45セーブ・防御率2.35の成績で[[最多セーブ投手 (MLB)|最多セーブ]]のタイトルを獲得し、チームの地区優勝の原動力となる。古巣レッドソックスとの[[1988年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]では全4試合に登板して4セーブを挙げ[[リーグチャンピオンシップシリーズ最優秀選手|シリーズMVP]]を獲得し、14年ぶりのリーグ優勝に貢献。[[ロサンゼルス・ドジャース]]との[[1988年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]では第1戦で1点リードの9回裏に満を持して登板簡単に2死を取ったものの次打者に四球で出塁を許し、代打[[カーク・ギブソン]]に逆転サヨナラ2点本塁打を浴び、痛恨のセーブ失敗。圧倒的有利と予想されたチームはドジャースの勢いに飲まれ、1勝4敗で敗退した。サイ・ヤング賞の投票では[[フランク・ヴァイオーラ]]に次ぐ2位、[[最優秀選手 (MLB)|MVP]]の投票では5位に入った。{{by|1989年}}は故障で1ヶ月半離脱するが、4勝33セーブ・防御率1.56を記録。57.2イニングで僅か3四球と抜群の制球力を発揮し、チームは地区連覇。[[トロント・ブルージェイズ]]との[[1989年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]では3セーブを記録し、リーグ連覇を果たす。「[[サンフランシスコ・ベイエリア|ベイエリア]]・シリーズ」となった[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]との[[1989年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]では[[ロマ・プリータ地震]]によって10日間中断するが、第4戦でセーブを記録し4連勝で自身初のワールドチャンピオンに輝いた。{{by|1990年}}はシーズンを通じて防御率が1点を越えること一度もなく、4勝2敗48セーブ・防御率0.61、セーブ失敗は僅か2で73.1イニングで4四球と抜群の安定感を見せ、チームは地区3連覇を果たす。レッドソックスとの[[1990年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]では2セーブを挙げ、チームは4連勝でリーグ3連覇。[[シンシナティ・レッズ]]との[[1989年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]では第2戦で同点の9回から登板し、10回裏にサヨナラ安打を浴びて敗戦投手。チームは4連敗で敗退した。{{by|1991年}}はやや安定感を欠きながらも43セーブを記録したが、チームは地区4位に終わる。{{by|1992年}}は開幕から36連続セーブ成功と復活し、7勝1敗51セーブ・防御率1.91、80イニングで93奪三振の好成績で2度目の最多セーブを獲得し、チームの2年ぶり地区優勝に貢献。ブルージェイズとの[[1992年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]では第1戦ではセーブを記録するが、第4戦で8回途中からリードを守るべく登板したが打ち込まれ、9回に[[ロベルト・アロマー]]に2点本塁打を浴びて同点に追い付かれてセーブ失敗し、延長の末敗れる。チームは2勝4敗で敗退した。オフにサイ・ヤング賞とMVPをダブル受賞。クローザーとして2つの賞を同時に獲得したのは[[ローリー・フィンガーズ]]、[[ウィリー・ヘルナンデス]]に次いで3人目だった。{{by|1993年}}は36セーブを挙げたものの防御率4.16、セーブ失敗が10と今ひとつ。{{by|1994年}}は開幕から3回連続でセーブに失敗するなど不振で、ストライキでシーズンが打ち切られたこともあり19セーブに留まった。40歳となった{{by|1995年}}は29セーブを記録するが防御率4.83、セーブ失敗9と衰えが見え始める。{{by|1996年}}[[2月13日]]に1対1の交換トレードで、恩師ラルーサが監督に就任した[[セントルイス・カーディナルス]]に移籍。
 
=== セントルイス・カーディナルス ===
同年は30セーブ・防御3.30を記録し、チームは地区優勝。パドレスとの[[1996年のナショナルリーグディビジョンシリーズ|ディヴィジョンシリーズ]]では全3試合に登板し3セーブ。[[アトランタ・ブレーヴス]]との[[1996年のナショナルリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]では1勝1セーブを記録するが、チームは第5戦王手をかけてから3連敗を喫し3勝4敗で敗退。{{by|1997年}}は42歳ながら36セーブを記録。オフにフリーエージェントとなり、[[12月9日]]にレッドソックスと契約。
 
=== 以後 ===