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{{出典の明記|date=2011年3月}}
{{基礎情報 中国君主
[[File:Hong Xiuquan.jpg|thumb|200PX|right|洪 秀全]]
|名 =洪秀全
'''洪 秀全'''(こう しゅうぜん、[[ピンイン]]:hóng xìu qúan、[[1814年]][[1月1日]] 〔[[嘉慶 (清)|嘉慶]]18年[[12月10日 (旧暦)|12月10日]]〕- [[1864年]][[6月1日]]〔[[同治]]3年[[4月27日 (旧暦)|4月27日]]〕)は[[中国]]の[[宗教家]]・[[革命家]]。原名はもともとは'''洪仁坤'''・'''洪火秀'''。[[広東省]][[広州市|広州]]福源水村出身で後に官禄土布村に移った。[[客家|客家人]]。[[キリスト教]]を基にした[[宗教]]教団、拝上帝会を興し'''天王'''を自称、[[南京市|南京]]を首都として[[清]]に反旗を翻し、国号を太平天国とした([[太平天国の乱]])。
|代数 =初代
|呼称 =天王
|画像 =[[ファイル:Hong Xiuquan.jpg|200px]]
|説明 =
[[Category:|王朝 =太平天国]]
|在位期間=[[1851年]] - [[1864年]]
|都城 =天京
|諱 =洪火秀→仁坤→秀全
|字 =
|小字  =
|生年 =[[嘉慶 (清)|嘉慶]]18年[[12月10日 (旧暦)|12月10日]]<br>([[1814年]][[1月1日]])
|没年 =[[同治]]3年[[4月27日 (旧暦)|4月27日]]<br>([[1864年]][[6月1日]])
|父 =[[洪鏡揚]]
|母 =王氏
|皇后 =[[頼蓮英]]
|注釈 =
}}
'''洪 秀全'''(こう しゅうぜん、[[ピンイン]]:hóng xìu qúan、qúan)は[[1814年]][[1月1日]] 〔[[嘉慶 ()|嘉慶]]18年[[12月10日 (旧暦)|12月10日]]〕- [[1864年]][[6月1日]]〔[[同治]]3年[[4月27日 (旧暦)|4月27日]]〕)は[[中国]]の[[宗教家]]・[[革命家]]。原名はもともとは'''洪仁坤'''・'''洪火秀'''。[[広東省]][[広州市|広州]]福源水村出身で後に官禄土布村に移った。[[客家|客家人]]。[[キリスト教]]を基にした[[宗教]]教団、拝上帝会を興し'''天王'''を自称、[[南京市|南京]]を首都として[[]]に反旗を翻し、国号を'''太平天国'''とした([[太平天国の乱]])。
 
== 生涯 ==
==太平天国以前==
===拝上帝教の誕生===
洪秀全は[[広東省]][[広州市|広州]]福源水村出身で後に官禄土布村に移った[[客家]]人。農村の読書人の家庭に生まれ[[科挙]]及第を目指していたが、[[郷試]]に失敗し、特に25歳の時の3度目の失敗では失望感から病床にいている。その病床で老人より現世の妖魔を取り除くべく派遣したとの幻覚を見る。しかし科挙に執着していた洪秀全は6年後の[[道光]]23年([[1843年]]春に再度郷試に臨むも落第した。この時[[梁発]]の『[[勧世良言]]』の影響を受けた洪秀全は[[子|孔]][[子|孟]]の書を捨て、キリスト教へ改宗し儒生としての人生に終止符を打った。『[[聖書]]』の学習経験のなかった洪秀全は、自らの解釈によるキリスト教の教義として'''拝上帝教'''を説き始めた。拝上帝教は入信すれば男女問わず平等であり、男性は兄弟、女性は姉妹とし、[[ヤハウェ]]を'''天父'''、[[イエス・キリスト|キリスト]]を'''天兄'''と称した。これはキリスト教教義との差異が大きく、洪秀全をキリストの弟、ヤハウェの次子とし、人間界に至って神の意思を実行する者としている。
[[Imageファイル:TaiPingRevolutionSeal.png|thumb|leftright|150px|太平天国天王玉璽]]
 
洪秀全は当初[[広州市|広州]]付近で布教を行ったが成功はしなかった。道光24年([[1844年]]、洪秀全は[[馮雲山]]とともに[[広西チワン族自治区|広西]]に移動し布教活動を行い、その地での信徒を増やしていった。道光25年([[1845年]]から道光26年([[1846年]]の間に洪秀全は『[[原道醒世訓]]』、『[[原道覚世訓]]』、『[[百正歌]]』等の作品を発表している。道光27年([[1847年]]初め、洪秀全は広州に戻った洪秀全は教会で数ヶ月教義を学習し[[洗礼]]を求めたが、教会は教義に対する認識が不十分として拒絶した。洗礼を受けることが叶わなかった洪秀全は再び広西に向かい馮雲山と合流、[[拝上帝会]]の規則や儀式を次々と制定していった。勢力を拡大した拝上帝会は、キリスト教と相反する清朝と次第に対立するようになり、[[1851年]]1月に[[金田起義|起義]]を宣言し、清朝に反旗を翻した
 
===太平天国の建国===
[[Imageファイル:HongXiuQuan TianWangFu Nanjing.jpg|right|120px200px|thumb|南京市[[天王府跡]]内の洪秀全像]]
 
道光30年[[12月10日 (旧暦)|12月10日]]([[1851年]][[1月11日]])、洪秀全は[[金田起義|起義]]を宣言して清朝に反旗を翻し、天王を称し太平天国を建国した。[[咸豊]]2年([[1852年]]、太平軍は広西から[[湖南省|湖南]]へと進出、咸豊3年([[1853年]]には南京を占拠、天京と改称し太平天国の首都に定めた。太平天国前期では軍事関係は全て軍師により指揮され、洪秀全は軍事行動と距離を置いて朝政を司っており、その大権は東王[[楊秀清]]によっていた。
 
天京に首都を定めた後、洪秀全は[[四書五経]]を禁書としようとしたが楊秀清はこれを拒否、結局禁書指定は行われなかったが、この事件をきっかけに洪秀全と楊秀清の溝が深まることとなった。洪秀全は同じく楊秀清に不満を募らせている北王[[韋昌輝]]、翼王[[石達開]]、燕王[[秦日綱]]と協力し、咸豊6年([[1856年]]に3人に対し楊秀清誅殺の密詔を出し、9月には[[天京事変]]が発生、楊秀清、韋昌輝、秦日綱が粛清された。事件後は翼王である石達開が実権を掌握したが、洪秀全は兄弟である[[洪仁発]]、[[洪仁達]]を重用し石達開を牽制、結果石達開の不満を引き起こし、石達開は大軍を率いて洪秀全の指揮を離脱した。一連の政変で太平天国の実権を掌握した洪秀全であるが、これ以降太平天国の勢力は急速に衰えていく。
 
===晩年===
太平天国討伐のための清軍が天京に迫るが、[[陳玉成]]や[[李秀成]]などの活躍にもあり数年間は太平天国は清軍の攻撃を撃退していた。咸豊9年([[1859年]]、族弟の[[洪仁カン|洪仁玕]]が天京に到着すると、洪秀全は軍師、干王に封じ、名義上の総理として太平天国の朝政を総覧させた。なんら実績のない洪仁玕を重用したことで人臣の離反を恐れた洪秀全は、歓心を買うための王爵を乱発するようになり、これ以降で王に冊封された者は2千名を超えた。[[同治]]元年([[1862年]])に陳玉成が清軍に殺害されると、太平天国の国勢はますます衰え、天京付近の拠点は清軍に奪回された。
 
洪秀全の晩年は保守化した思想面以外にも、宗教に過度に依拠した政策へと突き進んだ。一度は国号を'''上帝天国'''に変更しようとしたが、周囲の反対により'''天父天兄天王太平天国'''としている。[[李秀成]]は長期的に天京を守備することを困難と判断し、天京を放棄し中原に転戦することを献策しているが、逆に洪秀全の怒りを買うという事件もあった。困難な局面下で洪秀全は適切な政策を打ち出すことができず、また軍隊も非正規軍が母体であるため清軍に対抗することができなかった。
 
同治3年([[1864年]]3)3月、天京が包囲され城内の食料が不足すると、洪秀全は草木で飢えを凌いでいたがやがて病にかかり、[[1864年]]6月1日に病没した。屍骸は清軍により遺棄されている。
 
{{先代次代|[[太平天国の乱|太平天国]]の初代[[中国帝王一覧|天王]]|1851年 - 1864年|―|[[洪天貴福]]}}
==関連項目==
*[[太平天国の乱]]
 
{{DEFAULTSORT:こう しゆうせん}}
 
[[Category:新宗教中国開祖君主]]
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{{s-reg}}
{{Succession box
| title = [[太平天国]]天王
| years = 初代:1853 - 1864
| before = (創設)
| after = [[洪天貴福]]
}}
{{end box}}
 
{{DEFAULTSORT:こうしゆうせん}}
[[Category:太平天国]]
[[Category:太平天国の人物]]
[[Category:中国新宗教君主開祖]]
[[Category:客家人]]
[[Category:広州出身の人物]]
[[Category:1812年生]]
[[Category:1864年没]]
[[Category:新宗教の開祖]]
 
[[cs:Chung Siou-čchüan]]