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[[摂関家]]とのつながりが強かった大和国の興福寺は[[鎌倉時代]]に入ると、南都[[奈良]]やがて大和一国の支配権を得るようになった。本来同寺の衆徒は[[太政官符]]によって20名と定められ、[[別当]]や[[三綱]]の補佐にあたることになっていた(官符衆徒)が、次第に[[一乗院]]・[[大乗院]]などといった有力な[[門跡]]が自己の発言力の増大のために国内の武士や名主などを[[御家人]]などと称して自己の衆徒に組み入れ、自院の学侶に率いさせて寺内や奈良の町の[[検断]]などに従事させた。また、[[神仏習合]]によって興福寺と一体化していた[[春日社]]の[[神人]]に組み入れられて同様の役割を果たすこともあり、こうした春日社神人を「'''国民'''」と呼んだ。
 
代表的な大和の衆徒として一乗院傘下の[[筒井氏]]・[[越智氏]]、大乗院傘下の[[十市氏]]・[[古市氏]]などがいる。[[南北朝時代_(日本)|南北朝期]]になると[[十市遠康]]が、興福寺の所領を侵し、自らの支配地域を獲得して[[領主]]化する。興福寺別当から十市遠康討伐の要請を受け[[室町幕府]]第3代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義満]]は永和五年[[1379年]]、[[斯波義将]]、[[土岐頼康]]らを大和に派遣するが、幕府軍は十市遠康討伐を開始する気配を見せず、義満は十市氏討伐軍の諸将に、京への帰還を命じる。これにより歴史上初めて神木入洛による強訴を失敗に終わらせて[[寺社勢力]]に大打撃を与えてしまった。第6代将軍[[足利義教]]は、大和国内に幕府の支配権を確立するために両門跡の人事に介入した。しかし、豊田中坊と井戸とのあいだでおこった紛争に幕府がまきこまれ、事態は泥沼化してしまう。豊田中坊には、越智・箸尾・万歳と後南朝方の沢・秋山がつき、井戸は、筒井・十市がささえ、筒井対越智の対立は大和を二分する状況になり[[大和永享の乱]]と呼ばれる争いがはじまる。[[文明 (日本)|文明]]3(1471)年8月には布施(東軍)と越智家栄(西軍)が闘うが、布施には箸尾・楢原・倶尸羅・十市・筒井・前高田(布施高田)、越智には万歳・八田・飯高・古市・吐田・小泉・当高田(当麻高田)が援軍している。そこに有力[[守護大名]]も介入して[[応仁の乱]]を挟んだ長期の内紛へと発展した。応仁の乱では東軍の[[筒井順永]]・[[十市遠清]]と西軍の[[越智家栄]]・[[古市澄胤]]が激しく争い、以後大和国内は彼らの子孫たちによって群雄割拠された状態で[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]を迎えることになる。
 
戦国時代には[[筒井順昭]]と[[十市遠忠]]が[[畠山氏]]の重臣[[木沢長政]]が[[河内国]]で討死するとそれに乗じて勢力を拡大した。一時国内の大半を平定して[[戦国大名]]化を進めるが、順昭が急死して幼少の[[筒井順慶|順慶]]が後を継ぐと、越智氏と古市氏が反撃して筒井氏の支配は解体、更にその間隙を縫って[[三好長慶]]配下の[[松永久秀]]が大和に攻め込んで順慶を追放、越智氏らを屈服させて[[永禄]]2年([[1559年]])興福寺から大和国守護職の地位を奪った。その後、[[織豊政権]]政権のもとで大和一国の大名として復活した筒井順慶は、対外的には大和国主として国内的には父祖代々継承してきた官符衆徒の代表として[[法印]][[僧都]]の地位に就くという二面性を持った支配体制を確立する。だが、順慶の死後には[[豊臣秀吉]]が弟の[[豊臣秀長|秀長]]に大和一国を与えて、既存の支配体制を否定、衆徒・国民を強制的に解散させ、興福寺に対しては官符衆徒本来の20氏(名)のみを寺内の事務・警備要員として採用して総計380石を与えることを認めたのである。