「西突厥」の版間の差分

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===東西に分裂===
[[ファイル:Asia 600ad.jpg|thumb|480px|[[6世紀]]、東西突厥と周辺国。Western Gokturk Khanate='''西突厥'''、Eastern Gokturk Khanate=東突厥、Chinese Sui Dynasty=[[隋]]、Sassanid Persian Empire=[[サーサーン朝]]]]
[[581年]]、大可汗の[[他鉢可汗]](在位:[[572年]] - [[581年]])は病にかかり、子の[[阿史那菴羅|菴羅]]に「[[阿波可汗|大邏便]]を避けよ」と言い残して死去した。国中は大邏便を立てようとしたが、その母が卑賤の生まれだったので、国人たちは貴人の母をもつ菴羅を可汗とした。大邏便はまたも可汗位に就けなかったので、毎回人を遣わして菴羅を罵辱させた。これに対処しきれなかった菴羅は可汗位を従兄の爾伏可汗摂図に譲り、第二可汗に退いた。可汗に即位した摂図は[[沙鉢略可汗]](在位:[[581年]] - [[587年]])となり、大邏便に[[阿波可汗]]の称号を与えた。
 
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[[588年]]、{{仮リンク|第一次ペルソ・テュルク戦争|en|First Perso-Turkic War}}。
 
[[File:東西突厥帝国.png|thumb|450px|7世紀初めの東西突厥可汗国。]]
[[泥撅処羅可汗]](在位:[[603年]]頃 - [[612年]])の代になり、西突厥は彼の失政のために諸国の離反を招いた。[[大業]]6年([[610年]])、隋の[[煬帝]]は泥撅処羅可汗を狩りに誘ったが、泥撅処羅可汗がこれに応じなかったため、煬帝の怒りを買い、煬帝は泥撅処羅可汗を廃して達頭可汗の孫の射匱を大可汗の位に就けようとした。これによって射匱は泥撅処羅可汗を襲撃して大敗させ、泥撅処羅可汗は妻子を棄てて[[高昌]]の東に遁走した。[[黄門侍郎]]の[[裴矩]]は向氏を送って泥撅処羅可汗を諭し、隋に帰順させた。これ以降、泥撅処羅可汗は中国に移住し、[[隋の高句麗遠征|高句麗遠征]]などに従軍し、隋のために働いた。
 
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===最盛期===
[[ファイル:Asia 600ad 2.jpg|thumb|480px|[[7世紀]]、西突厥の最大版図。Western Gokturk Khaganate='''西突厥'''、Eastern Gokturk Khaganate=[[東突厥]]、Chinese Empire(Sui Dynasty)=[[隋]]、Tuyuhun=[[吐谷渾]]、Persian Empire(Sassanid Dynasty)=[[サーサーン朝]]]]
射匱可汗が死去すると、弟の統葉護が立って大可汗(在位:[[619年]]頃 - [[628年]])となる。[[統葉護可汗]]は智謀があり、武勇に優れ、遂に北の[[鉄勒]]を併合し、西の波斯([[サーサーン朝]])を拒み、南の[[罽賓]](けいひん)と境を接するまでになり、西域に覇を唱えた。西域の諸国王は頡利発(イリテベル:官名)の官位を授かり、統葉護可汗は吐屯(トゥドゥン:官名)1人を派遣して統括させ、その征賦を監督した。旧[[烏孫]]の地に拠り、可汗庭(首都)を[[石国]]の北の千泉に移した。
 
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[[顕慶]]2年([[657年]])、[[高宗 (唐)|高宗]]は右屯衛将軍の[[蘇定方]]、燕然都護の[[任雅相]]、副都護の[[蕭嗣業]]、左驍衛大将軍・瀚海都督の[[迴紇婆閏]]らに軍を率いて討撃させ、右武衛大将軍の[[阿史那弥射]]、左屯衛大将軍の[[阿史那歩真]]に安撫大使とさせた。蘇定方が曳咥河の西まで達すると、阿史那賀魯は胡禄居闕啜など2万余騎を率いて迎え撃った。蘇定方は副総管の任雅相らを率いてこれと交戦し、阿史那賀魯の衆を大敗させ、大首領の都搭達干ら200余人を斬った。阿史那賀魯及び胡禄居闕啜の軽騎は遁走し、伊麗河(イリ川)を渡ったが、兵馬の多くが溺死した。蕭嗣業は千泉に至り、阿史那賀魯の本営を突き、阿史那弥射は進軍し、伊麗水(イリ川)に至り、処月,処密などの部落は各々衆を率いて来降した。阿史那弥射はさらに雙河(ボロ川)へ進んだ。阿史那賀魯は先に歩失達干に散り散りになった兵士を集めさせて、柵によって防ぎ戦った。阿史那弥射,阿史那歩真はこれを攻め、大破した。また蘇定方は阿史那賀魯を[[碎葉水]](スーヤーブ河)で攻め、これも大破した。
[[ファイル:Asia 700ad.jpg|thumb|480px450px|[[7世紀]]、西突厥崩壊後の周辺国。Eastern Gokturk Khanate=[[東突厥]](第二可汗国)、Tang Dynasty=[[唐]]、Kimak Turks=[[キメク]]、Karluk Turks=[[カルルク]]、Guzz Turks=[[オグズ]]]]
阿史那賀魯は阿史那咥運と鼠耨設のもとに身を寄せようと思い、石国の蘇咄城近辺まで来たが、人馬ともに飢えていた。城主の伊涅達干(イネルタルカン:官名)は酒・食料を持って偽って出迎えた。阿史那賀魯らはその詐術にはまり、城内に入ったところを捕らえられた。蕭嗣業が石国に到着すると鼠耨設は阿史那賀魯の身柄を引き渡した。阿史那賀魯は京師に連行された。唐はその種落を分けて[[崑陵都護府|崑陵]],[[濛池都護府|濛池]]の2都護府を置き、諸国を役属することとなり、州府を分けて置き、西は波斯([[サーサーン朝]])、[[安西都護府]]に隷属した。これにより西突厥は唐の[[羈縻政策]]下に入る。