「チェコスロバキア共産党」の版間の差分

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ゴットワルトは[[1929年]]に共産党書記長に就任し、第二次大戦中はソ連の首都[[モスクワ]]で共産党パルティザンへの指揮を行っていた経歴の通り、非常にソ連に対して忠実な人物であり、当時のソ連の独裁者である[[ヨシフ・スターリン]]の政治手法をそのまま踏襲した。すなわち、戦前のチェコスロバキアが維持していた議会制度は完全に放棄され、他政党の支持者はブルジョワ主義者や対独協力者として大量に粛清された。
 
粛清は共産党内にも及び、特に戦後もチェコスロバキア共産党の下部組織として存続していた[[スロバキア共産党]]は[[分離主義]]傾向を持つ[[チトー主義]]者の根拠地として多くの犠牲者を出した。[[1951年]]には共産党の[[ルドルフ・スランスキー]]([[:en:Rudolf Slánský]])書記長や[[ヴラジミール・クレメンティス]]外相が逮捕され、[[1952年]][[11月20日]]にはチトー主義・トロツキスト・アメリカのスパイなどの冤罪により11人が死刑判決を受ける[[スランスキー裁判]]([[:en:Slánský trial]])が行われた(同年[[12月2日]]に執行)。
 
経済政策でもゴットワルトはスターリンと同様の政策を実施した。全ての生産設備は国有化され、中世以来の自由農民の伝統を破壊する[[農業集団化]]も強行されて、チェコスロバキアは「ミニ・スターリン」の手で最も[[スターリニズム|スターリン主義]]的な[[ソ連型社会主義]]国家へ変貌した。