「奴隷制度廃止運動」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
YFdyh-bot (会話 | 投稿記録)
m r2.7.3) (ロボットによる: ka:აბოლიციონიზმიを追加
編集の要約なし
46行目:
他の「[[新世界]]」植民地では、大西洋貿易によって[[フランス]]植民地の[[サトウキビ]]・プランテーションに労働力を供給していた。フランス領西インド諸島には、現在の呼び方で、[[アンギラ]](短期間)、[[アンティグア・バーブーダ]](短期間)、[[ドミニカ国]]、[[ドミニカ共和国]]、[[グレナダ]]、[[ハイチ]]、[[モントセラト]](短期間)、[[セントルシア]]、[[セントビンセント・グレナディーン]]、[[シント・ユースタティウス島]](短期間)、[[セントクリストファー・ネイビス]]([[ネイビス島]]を除く)、[[トリニダード・トバゴ]]([[トバゴ島]]のみ)、[[セント・クロイ島]](短期間)、および現在のフランス海外県である[[マルティニーク]]と[[グアドループ]]([[サン・マルタン (西インド諸島)|サン・マルタン島]]の北半分と[[サン・バルテルミー島]]を含む)が含まれていた。
 
奴隷貿易は[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の[[{{仮リンク|コード・ノアール|en|Code Noir|label=黒人法]]}} (({{lang-fr|[[:fr:Code Noir)|Code Noir]]}})によって規制されていた。奴隷制度は[[1791年]]の[[トゥーサン・ルーヴェルチュール]]による[[サン=ドマング]]での[[ハイチ革命]]後に初めて廃止された。反乱軍は奴隷制度の廃止を要求し、[[1794年]][[2月4日]]に[[ジャコバン派]]の率いる[[フランス第一共和政]] (1792 - 1804) は[[プリュヴィオーズ16日法]]を可決して奴隷制度の廃止を決議した。アンリ・グレゴワールと、[[ジャック・ピエール・ブリッソー]]が指導する「黒人の友の会」(''Societe des Amis des Noirs'') が奴隷制度廃止運動の一部を担い、フランス本土における反奴隷制度感情を作り上げる重要な基盤を築いた。法律の第一条はフランス植民地における「奴隷制度は廃止する」としていたが、第二条は奴隷の対価に応じて「奴隷所有者は補償される」とされていた。
しかし、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]は第一執政となった後に奴隷制度を復活させ、これを強いるために軍政府長官と軍隊を派遣した。[[1802年]][[5月10日]]、グアドループでデルグレ大佐がナポレオンの代理人リシェパンス将軍に対して反乱を起こした。この反乱は鎮圧され、奴隷制度が再構築された。この事件に関する情報がハイチに伝わり、[[ジャン=ジャック・デサリーヌ]]らに[[1804年]]の[[ハイチ]]独立につながる反乱を起こさせた([[ハイチ革命]])。[[1848年]][[4月27日]]、[[フランス第二共和制|第二共和制]] (1848 - 1852) の下で、[[ヴィクトル・シュルシェール]]の緊急命令により、再び奴隷制度は廃止された。国はコロン(白人植民者、[[クレオール言語]]のベケ)から奴隷を買い上げ、解放した。