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'''ボリス・ゴドゥノフ'''({{lang|ru|Бори́с Фёдорович Годуно́в}} / Boris Fyodorovich Godunov, [[1552年]] - [[1605年]][[4月23日]] / [[ユリウス暦]][[4月13日]])は[[モスクワ・ロシア]]の[[ツァーリ]](在位:[[1598年]] - [[1605年]])。
 
== 生涯 ==
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[[1591年]]、フョードル1世の異母弟[[ドミトリー・イヴァノヴィチ (ウグリチ公)|ドミトリー]]が謎の死を遂げると、ボリスはヴァシーリー・シュイスキーに死因調査命じた。
 
ヴァシーリー・シュイスキーは、ドミトリーがナイフを持って遊んでいたときに癲癇の発作を起こし、自分の持っていたナイフで喉を傷つけてしまった、と事故死として判断した。
 
しかし、ドミトリーは子供のいなかった兄フョードル1世の事実上の後継者であったことから、人々の間ではツァーリの座を狙うボリスの仕業だという噂がまことしやかに語られ、これ以降彼の人生に重くのしかかることとなった
 
ただ、ボリスが関与したという話は確固とした証拠がなかったため、この時点では彼にさほど影響を与えなかった。
 
===摂政としての政治===
[[FileImage:Baidana ringsFyodor&boris.JPGjpg|thumb|left|200px250px|ボリス・ゴドゥノフとフョードル1世。そ治世はボリスが全権を握っていた。]]
[[File:Baidana rings.JPG|thumb|right|200px|ボリス・ゴドゥノフの鎧]]
外交面では[[イングランド]]と友好を強め、[[1590年]]からの{{仮リンク|ロシア・スウェーデン戦争 (1590年-1595年)|en|Russo-Swedish War (1590–1595)|label=ロシア・スウェーデン戦争}}に勝利して[[フィンランド湾]]沿岸部を回復した。
 
西シベリアへの進出も成功を収め、[[イェルマーク]]の率いる[[コサック]]傭兵軍団は、[[1598年]]には[[シビル・ハン国]]を滅ぼしてモスクワ国家の版図を拡げた。また[[1589年]]に[[モスクワ総主教]]座が置かれ、[[正教会]]内でのモスクワの地位を高めた。
 
また、[[1589年]]に[[モスクワ総主教]]座が置かれ、[[正教会]]内でのモスクワの地位を高めた。
しかし当時のモスクワ国家は甚大な経済的・社会的危機を迎えていた。飢饉と重税のため逃亡農民が激増し、労働力不足と税収の落ち込みで国家・社会は停滞しつつあった。ボリスは農民の移動制限などで対処したが、効果は出なかった。南部や東部へ大量に逃亡・移住した農民やコサックを、国家はうまく管理出来なかった。
 
しかし当時のモスクワ国家は甚大な経済的・社会的危機を迎えていた。飢饉と重税のため逃亡農民が激増し、労働力不足と税収の落ち込みで国家・社会は停滞しつつあった。ボリスは農民の移動制限などで対処したが、効果は出なかった。南部や東部へ大量に逃亡・移住した農民やコサックを、国家はうまく管理出来なかった。
 
ボリスは農民の移動制限などで対処したが、効果は出なかった。南部や東部へ大量に逃亡・移住した農民やコサックを、国家はうまく管理出来なかった。
 
===即位とその治世===
[[File:Sergei Prokudin-Gorskii - Feodor Chaliapin as Boris Godunov.jpg|thumb|rihgt|200px|頭を抱えるボリス・ゴドゥノフ。彼は7年間ロシアを統治したが、その治世は混乱を極めた。]]
1598年[[1月]]、男子のないフョードル1世が崩じて[[リューリク朝]]が絶えると、摂政で義兄のボリスが[[ゼムスキー・ソボル|全国会議]]でツァーリに選出された。

また、ボリスが貴族会議による権限制約を拒むと、リューリクの流れをくまないボリスは帝位を受ける出自でないと、貴族から反発が挙がった。
 
ボリスは[[フィラレート (モスクワ総主教)|フョードル・ロマノフ]]ら主だった有力貴族を失脚させ、反対派を力で抑え込んだ。ボリスの治世には災害が頻発し、凶作や飢餓、疫病は各地で猛威をふるった。農民や逃亡奴隷が暴動をおこして国内は機能停止状態に追い込まれ、政府の対応策は全く意味をなさなかった。