「神辺城」の版間の差分

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=== 黄葉山 ===
黄葉山の城は[[1443年]](嘉吉3年)に山名氏によって築かれたとされるが、当初の規模や様子はよくわかっていない。その後、「但馬村岡山名家譜」によると、山名煕之の嫡男山名氏明が神辺城主であったと伝わり、[[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])までに[[山名理興]]が城主となっていることがわかっているが、氏明以外には理興以前の城主は明らかではない。天文12年([[1544年]])頃に神辺城は大内氏に攻められ(神辺合戦)、理興は約7年間持ちこたえるが、天文18年([[1549年]])に落城する。山名理興は逃亡し、大内氏は神辺城を直轄城とし青景越後守を城番に置くが、大内氏が滅亡し勢力基盤を毛利元就が継承すると毛利氏は臣従した山名理興に神辺城主復帰を認めた。弘治3年(1557年)に理興が死去すると、家老の杉原盛重が神辺城主となる。これに異を唱えた理興の旧臣藤井皓玄が謀反をおこし神辺城が占拠するが、すぐに鎮圧され皓玄は備中国に逃亡し自刃した。永禄7年(1564年)に盛重が西伯耆の尾高城に移ると、神辺城は盛重の二男[[杉原景盛]]が引き継ぐが、天正12年(1584年)に兄の元盛を謀殺したことで毛利氏に討ち取られたことから、神辺城は毛利氏の直轄城とされた。天正19年からは毛利元就の八男[[末次元康|毛利元康]]が城主となる。
 
毛利元康は慶長3年(1598)に神辺城から南に位置する海辺に新たな城(王子山城))を築いて移り住んだ。しかし、慶長5年に[[関ヶ原の戦い]]の戦後処理により元康の所領が没収されると、替わりに[[福島正則]]が入封して、神辺城には筆頭[[家老]]であった福島丹波守正澄が3万石で置かれた。福島氏は[[元和 (日本)|元和]]5年([[1619年]])に改易され、[[水野勝成]]が入封する。水野氏は西国の[[外様大名]]を監視するために配置された譜代大名であったため、その役割を担う城としては神辺城は規模が小さく不便であるとして、[[芦田川]]河口の常興寺山に新たな城([[福山城 (備後国)|福山城]])を築いて神辺城は廃城とされた。