「本山茂宗」の版間の差分

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武勇に優れた人物で、『[[土佐物語]]』では、「其器傑出して、偏に興立の志ありければ、近辺の金銀衣食を与へて是を懐け、諸士に賄を厚くして親みをなし、遂に人数を催して、土佐・吾川両郡に発向して、随はざるをば攻亡し、降を乞ふをば、免して幕下になし、両郡く打摩け、猛威を振ふ事甚し」といわれる傑物だった。[[土佐七雄]]の中では最も勢力が大きかった。
 
山深い土佐北部から出て、経済的に豊かな土佐中央部へ侵攻し勢力を拡大した。本城だった[[本山城_(土佐国)|本山城]]を子の[[本山茂辰|茂辰]]にゆずり、[[朝倉城 (土佐国)|朝倉城]]に本拠を移して経営をたくましくした。[[天文 (元号)|天文]]9年([[1540年]])頃、契機を見て荒倉山を超えて吾川郡弘崎に兵を進め、その地の豪族・[[吉良氏|土佐吉良氏]]を滅亡に追い込む<ref>茂宗は吉良駿河守の不意を襲ったという。</ref>。さらに、土佐国の有力大名であった[[土佐一条氏]]の軍と戦うなど、[[本山氏]]の最盛期を築き上げた。[[長宗我部氏]]に対しては快く思っておらず、[[室町幕府]]に媚びていた長宗我部氏を「虎の威を借る野狐」と称した<ref>ただし[[土佐一条家]]の仲介を得て長宗我部氏と縁組している。</ref>。
 
茂宗の死後、本山氏は長宗我部氏の反攻を受けるようになる<ref>茂宗の死は本山氏の家運に決定的な打撃を与え、長宗我部氏との均衡が崩れる要因を成した。</ref>。