「ボリス・ゴドゥノフ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
11行目:
| 別号 = [[モスクワ大公]]
| 全名 = ボリス・フョードロヴィチ・ゴドゥノフ
| 配偶者1 = {{仮リンク|マリヤ・スクラートヴァベリスカヤ|en|Maria Skuratova-Belskaya|label=マリヤ・スクラートヴァ=ベリスカヤ}}
| 子女 = [[クセニヤ・ゴドゥノヴァ|クセニヤ]]<br/>[[フョードル2世]]
| 王家 =
33行目:
[[コストロマ]]地方の下級貴族の出身で、先祖は14世紀に[[モスクワ大公国]]に臣従した[[タタール]]といわれる。
 
ボリスは[[1571年]]に[[オプリーチニナ]]隊に所属し、[[イヴァン4世]]の寵臣{{仮リンク|マリュータ・スクラートフ|en|Malyuta Skuratov}}の娘{{仮リンク|マリヤ・スクラートヴァベリスカヤ|en|Maria Skuratova-Belskaya|label=マリヤ}}と結婚したことにより、権勢を得る道を開いた。
 
有能な顧問官として[[イヴァン4世]]の信任厚く、[[1580年]]には大貴族に叙せられたうえ、妹の[[イリナ・ゴドノヴァ|イリナ]]が皇子[[フョードル1世|フョードル]]の妃となる栄誉に恵まれ、[[1584年]]に義弟が[[フョードル1世]]として即位すると、その摂政団の一員となる。
40行目:
 
===皇弟ドミトリーの死===
[[Image:Boris Godunov.jpg|thumb|left|200px|ボリス・ゴドゥノフ]]
[[ファイル:1899. Tzarevich Dmitry by M. Nesterov.jpg|thumb|right|200px|ドミトリー]]
[[1591年]]、フョードル1世の異母弟[[ドミトリー・イヴァノヴィチ (ウグリチ公)|ドミトリー]]が謎の死を遂げると、ボリスはヴァシーリー・シュイスキーに死因調査命じた。
66 ⟶ 67行目:
1598年[[1月]]、男子のないフョードル1世が崩じて[[リューリク朝]]が絶えると、摂政で義兄のボリスが[[ゼムスキー・ソボル|全国会議]]でツァーリに選出された。
 
また、ボリスが貴族会議による権限制約を拒むと、[[リューリク]]の流れをくまないボリスは帝位を受ける出自でない貴族から反発が挙がった。
 
[[File:Nikolay Ge 029.jpeg|thumb|left|250px|ボリスはドミトリーの死について確認するため、その母[[マリヤ・ナガヤ]]を召還した。]]
ボリスは[[フィラレート (モスクワ総主教)|フョードル・ロマノフ]]ら主だった有力貴族を失脚させ、反対派を力で抑え込んだ。ボリスの治世には災害が頻発し、凶作や飢餓、疫病は各地で猛威をふるった。農民や逃亡奴隷が暴動をおこして国内は機能停止状態に追い込まれ、政府の対応策は全く意味をなさなかった。
 
[[1604年]]、死亡したはずの皇子ドミトリーを名乗る若者が現れ、[[ポーランド人]]やコサック、不満分子を従えて反乱を起こした。この[[偽ドミトリー1世|偽ドミトリー]]は国内の多くの人々に本物の皇子と信じられ、反体制派は彼を主君と仰いだ。
 
自称ドミトリーへの支持が全国に広がるなか、既に体調が悪化していたボリスは[[1605年]][[4月]]急死し、息子のフョードルが[[フョードル2世]]としてツァーリに即位した。
 
==人物像==
86 ⟶ 88行目:
 
==ドミトリーの殺害について==
ボリス・ゴドゥノフがフョードル1世の弟ドミトリー暗殺した説は暗殺当初から人々の間で噂され、[[オペラ]]の題材にされるなど300年以上にわたり信じられてきた。
 
しかし、そのようなことをすればフョードル1世の摂政をしていた彼に疑いの目が向くのは必至であり、頭の良かった彼がわざわざそのようなことをするのか、というのが最近のロシア歴史家の見解であり、この暗殺説はあまり信じられなくなってきている。