「ボリス・ゴドゥノフ」の版間の差分

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===即位とその治世===
[[File:Sergei Prokudin-Gorskii - Feodor Chaliapin as Boris Godunov.jpg|thumb|rihgt|200px|頭を抱えるボリス・ゴドゥノフ。彼は7年間ロシアを統治したが、その治世は混乱を極めた。]]
[[file:Godunov tsar.jpg|thumb|left|200px|ボリス・ゴドゥノフの即位]]
1598年[[1月]]、男子のないフョードル1世が崩じて[[リューリク朝]]が絶えると、摂政で義兄のボリスが[[ゼムスキー・ソボル|全国会議]]でツァーリに選出された。
 
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[[File:Nikolay Ge 029.jpeg|thumb|left|250px|ボリスはドミトリーの死について確認するため、その母[[マリヤ・ナガヤ]]を召還した。]]
そのため、ボリスは[[フィラレート (モスクワ総主教)|フョードル・ロマノフ]]ら主だった有力貴族を失脚させ、反対派を力で抑え込んだ。ボリスの治世には災害が頻発し、凶作や飢餓、疫病は各地で猛威をふるった。農民や逃亡奴隷が暴動をおこして国内は機能停止状態に追い込まれ、政府の対応策は全く意味をなさなかった
 
おまけにボリスの治世には災害が頻発し、凶作や飢餓、疫病は各地で猛威をふるうなど不運だった。
[[1604年]]、死亡したはずの皇子ドミトリーを名乗る若者が現れ、[[ポーランド人]]やコサック、不満分子を従えて反乱を起こした。この[[偽ドミトリー1世|偽ドミトリー]]は国内の多くの人々に本物の皇子と信じられ、反体制派は彼を主君と仰いだ。
 
ボリスは対策は立てたものの、農民や逃亡奴隷は暴動をおこし、国内は機能停止状態に追い込まれ、政府の対応策は全く意味をなさなかった。
 
[[1604年]]、死亡したはずの皇子ドミトリーを名乗る若者が現れ、[[ポーランド人]]やコサック、不満分子を従えて反乱を起こした。この[[偽ドミトリー1世|偽ドミトリー]]は国内の多くの人々に本物の皇子と信じられ、反体制派は彼を主君と仰いだ
 
ボリスはこれを「[[偽ドミトリー1世|偽ドミトリー]]」と呼んだが、この偽ドミトリーは国内の多くの人々に本物の皇子と信じられ、反体制派は彼を主君と仰いだ。
 
自称ドミトリーへの支持が全国に広がるなか、既に体調が悪化していたボリスは[[1605年]][[4月]]に急死し、息子のフョードルが[[フョードル2世]]としてツァーリに即位した。