「大和民労会と大日本国粋会の抗争事件」の版間の差分

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久極 (会話 | 投稿記録)
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1月末に[[洲崎]]・武部申策の身内・佐久間政雄が、大日本国粋会幹事・小島長次郎を喧嘩の末に斬殺。茨城長が斬られたことを知った国粋会系の博徒約140人が日本刀や短刀を持って、洲崎の遊郭付近の広場に集結。佐久間は民労会に助けを求め、武装した民労会員160人が自動車20台に分乗し洲崎の遊郭付近の広場に移動。両者斬り合いとなった。
 
森川哲郎の『日本の黒幕』には以下の記述がある。佐久間政雄(後の中村政雄)と小島長次郎はともに武部申策の子分であった。中村は武部組随一の男とされて沼田寅松とともに武部がもっとも信頼していた。自由党院外団の壮士崩れである武部の子分の中には博徒と壮士のグループがいた。武部組は子分の数、三千人と呼ばれ敵対する組織はなかったが博徒(小島長次郎)と壮士(中村政雄)の子分同士の紛争はたびたび起きていた。深川区洲崎弁天町(現在の江東区東陽町あたり)で中村が小島の頭や手を斬って四ヶ所の傷を負わせた際、小島の兄弟分だった浅草の赤羽隆次郎が「佐久間が小島を切り殺した」とデマを飛ばし国粋会が応援に駆けつけ、中村の応援する側に国粋会と対立する民労会が集まったが洲崎警察が人員を大量に動因して中村、赤羽を含めた60人あまりが逮捕された。怪我をしたのは小島だけであった。親分の武部申策は「世間を騒がせて許せない」と中村政雄を殴りつけて「刑務所から出たら(『顔役名鑑』(警視庁)によると懲役八ヶ月)小島を兄貴分として立てろ」と命じた。これは武部組の多田重人から森川哲郎が聞いた話として記述している。また顔役名鑑には2月に起きた事件として収録されているが小島が殺されたという記述はない。
 
 
==註==