「戸隠山」の版間の差分

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古くから修験の地として栄え、天台宗と真言宗が覇を競い、山に向かって奥社参道左手が真言宗の、右手が天台宗のテリトリーであったとされる。両宗派間にはいさかいが絶えなかったが、ある時真言宗派の僧侶が天台宗の僧侶を襲ったが、逆に真言宗が戸隠の地を追われる結果となった。その後、廃仏毀釈によって全て神道に代わり現在に至っている。
 
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、[[信濃国]]とその近隣では[[上杉氏]]と[[武田氏]]が覇を競ったが、この時期の戸隠神社や[[飯綱権現|飯綱神社]]は多くの[[山伏|修験者]]と信仰者集団を抱えており、両氏にとってぜひ味方につけたい存在であった。特に修験者は、広く各地の情報に通じていたことや、薬草の知識があったことにより従軍医師としての期待が大きかった。
 
戸隠修験の近年の状況だが、修験者が使用した洞窟や岩屋である「三十三窟」<ref>http://www1.ocn.ne.jp/~pia/gaido/gaido.htm#anchor45 45 戸隠三十三窟](森を歩くガイド) - お山の宿 ぴあろっきー(2011年12月3日閲覧)</ref>が山の中腹に残っており、それぞれ「般若窟」「龍窟」といった名称も残っているが、修験が絶えて久しいことなどから道も定かではなく、それらへ辿り着くのは容易ではない<ref>近況については、2004年に刊行された『戸隠村の石造文化』(参考文献セクションを参照)に詳しく、大まかな地図と状況が書かれている。</ref>。