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| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国安土桃山時代]]
| 生誕 = [[天正]]4年([[1576年]])<ref name="戦国人名事典544">阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P544</ref>
| 死没 = 天正20年[[3月15日 (旧暦)|3月15日]]([[1592年]][[4月26日]]<ref name="戦国人名事典544">阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P544</ref>
| 改名 =
| 別名 = 平九郎<ref name="戦国人名事典544"/><ref name="新庄藩11">大友『シリーズ藩物語、新庄藩』、P11</ref>
| 戒名 =
| 墓所 =
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}}
 
'''戸沢 光盛'''(とざわ みつもり)は、[[安土桃山時代]]の[[大名]]。[[戸沢氏]]の第19代当主<ref name="戦国人名事典544">阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P544</ref>。[[出羽国|出羽]][[角館城]]主。[[戸沢盛安]]の実弟にあたる<ref name="戦国人名事典544">阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P544</ref>。[[家系]]は[[平衡盛]]を祖とする[[戸沢氏]]
 
== 略歴生涯 ==
[[天正]]4年([[1576年]])、第16代当主・[[戸沢道盛]]の子として生まれる。
天正4年(1576年)、第16代当主・[[戸沢道盛]]の子として生まれる。通称は平九郎<ref name="新庄藩11">大友『シリーズ藩物語、新庄藩』、P11</ref><ref name="戦国人名事典544">阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P544</ref>。天正18年([[1590年]])に兄で第18代当主の盛安が早世し、その実子である[[戸沢政盛]]も幼少だったため、家督を継いで第19代当主となる<ref name="新庄藩11">大友『シリーズ藩物語、新庄藩』、P11</ref><ref name="戦国人名事典544">阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P544</ref>。豊臣秀吉の[[奥州仕置]]では領地を安堵され、「出羽国仙北之内北浦郡御検地目録帳」では4万4350石余の所領を安堵されている<ref name="新庄藩11">大友『シリーズ藩物語、新庄藩』、P11</ref>。
 
天正4年(1576年)、第16代当主・[[戸沢道盛]]の子として生まれる。通称は平九郎<ref name="新庄藩11">大友『シリーズ藩物語、新庄藩』、P11</ref><ref name="戦国人名事典544">阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P544</ref>。天正18年([[1590年]])兄で第18代当主の[[戸沢盛安]]が早世し、その実子である[[戸沢政盛]]も幼少だったため、家督を継いで第19代当主となる<ref name="新庄藩11">大友『シリーズ藩物語、新庄藩』、P11</ref><ref name="戦国人名事典544">阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P544</ref>。[[豊臣秀吉]]の[[奥州仕置]]では領地を安堵され、「出羽国仙北之内北浦郡御検地目録帳」では4万4350石余の所領を安堵されている<ref name="新庄藩11">大友『シリーズ藩物語、新庄藩』、P11</ref>。
天正20年(1592年)、[[豊臣秀吉]]の命令で[[文禄の役]]が始まると、それに参加して[[肥前国|肥前]][[名護屋城]]に向かったが、その途上で発病し、3月15日に[[播磨国|播磨]][[姫路]]において死去した<ref name="戦国人名事典544">阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P544</ref><ref name="新庄藩12">大友『シリーズ藩物語、新庄藩』、P12</ref>。享年17<ref name="戦国人名事典544">阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P544</ref>。
 
天正20年([[1592年]])、豊臣秀吉による[[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]]が始まると、それに参加して[[肥前国|肥前]][[名護屋城]]に向かったが、その途上で発病し、3月15日に[[播磨国]][[姫路]]において死去した<ref name="戦国人名事典544"/><ref name="新庄藩12"/>。享年17<ref name="戦国人名事典544"/>。伝承によれば、播磨の国塩屋(・[[兵庫県]][[神戸市]]垂水区塩屋町)にて疱瘡<ref name="新庄藩12">大友『シリーズ藩物語、新庄藩』、P12</ref>で死去し、塩屋の海岸にて荼毘に付され、禅昌寺(神戸市須磨区)に埋葬されたと伝承すいわれる。また、その墓である五輪塔は、疱瘡除けとして信仰された<ref>b4^『神戸名勝案内記』(明治30年)付録p2、『西攝大観』(明治44年)下巻 武庫郡之部p22、神戸又新日報『カウベ新風土記』(昭和9年5月6日)。</ref>。
 
跡を甥の[[戸沢政盛]]が継いだ<ref name="戦国人名事典544">阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P544</ref>。
 
== 脚注 ==
=== 引用元 ===
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<references/>
 
== 参考文献 ==