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== 1982年の悲劇 ==
;前兆・サンマリノGP
1982年のF1シーズンは、それまでから続く[[FISA]]<ref>主催者側、自動車メーカー系チーム(フェラーリ、ルノー、[[アルファ・ロメオ]])がこちらについていた。</ref>と[[フォーミュラ・ワン・コンストラクターズ・アソシエーション|FOCA]]<ref>チーム側、主に[[イギリス]]系のチームがこちらについていた。</ref>の対立という運営の混乱もあり、シーズンは開幕当初から荒れていた。第2戦[[ブラジルグランプリ|ブラジルGP]]では重量規定違反<ref>ターボエンジンに馬力で劣る[[フォード・コスワース・DFVエンジン|DFVエンジン]]勢は、シャシーを最低重量よりも軽く作って「ブレーキ冷却水」という名目で水タンクを設置していた。レース前の車検はタンクに水を入れておき、レース中にはタンク内の水を捨てて車重を軽くし、レース後に注ぎ足して最低重量規定をクリアしていた。</ref>により1、2位が失格。これを不服としたFOCA系チームが第4戦[[サンマリノグランプリ|サンマリノGP]]をボイコットし、14台のみの出走となった。
 
決勝は、ルノーの[[ルネ・アルヌー]]とフェラーリ勢が抜け出す展開となり、後続に大差をつけ激しいバトルが展開されたが、アルヌーは45週目にエンジントラブルでリタイヤ。以後はフェラーリ陣営の1-2体制となったため、同士討ちやガス欠を防ぐ意味で、チームは「'''SLOW'''」のピットサインを提示した。