「茨城県立水戸商業高等学校」の版間の差分

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*[[長谷川浩嗣]] - [[日清製粉グループ本社]]社長
*[[渡辺裕之]] - [[俳優]]
 
==国登録文化財・のいばら館==
『野いばら館』は、1902年東京帝国大学建築科卒『駒杵 勤治』の設計・監督により、1904年明治37年に竣功した旧木造本校舎(約82m)の正面玄関部分を移築し東西両側面に其々、東棟・西棟の教室正面部を残した建物。本校舎正面玄関は来賓や教師の出入り口として使用され、在校生は別昇降口での出入りに限定された。
 駒杵勤治は、1902年から1905年の僅か2年3ヶ月の間に、茨城県の土木技師として県立水戸商業学校・県立水戸高等女学校(講堂)・県立図書館・土浦中学(校舎)・太田中学(講堂)・竜ヶ崎中学(講堂)・・麻生警察署・下館警察署等の建築設計に携わり、その後長崎県佐世保への赴任により茨城を離れる。
 明治期の近代建築のブームの中、その後の東京駅竣功に携わる『辰野 金吾』の門下生として、東京帝国大学を繰り上げ卒業し、当時の茨城県知事に免れた人材。
辰野金吾による東京駅建築開始の4年前に完成している水戸商業本校舎は、丸窓や引き上げ式の窓・室内の建具等に類似のデザインを見る事ができるが、失われてしまった水戸商業高校の講堂には、平成の大修理で生まれ変わった大正期の東京駅と類似する天井組や窓の装飾が存在していた。
 
 昭和47年に現在の鉄筋校舎の新築にあたり、現在の県立歴史館の敷地内(県立水戸農業高等学校移転跡地)への移築保存を同窓生・在校教師・在学生一同の署名運動による保存嘆願陳情が有ったが、同時期に建築された土浦一高(旧土浦中学校=駒杵設計)の保存状態が優美であった為に止む無く却下され現在の『野いばら館』部分のみの校舎保存の決定により、昭和48年に当時の市立図書館として利用の旧水商同窓生会館〔モルタル造二階建て〕(昭和48年解体)の跡地(現在の地)に校舎の中央部分のみ挽屋移築された。
 
 その後、新築校舎の完成までの間、部室・音楽室等に配され、現在の同窓生会館“野いばら館”として至る。現在は水戸商業高等学校往年時代の面影として展示室・同窓生事務局室として現存する。
 1996年に[[登録有形文化財]]に登録された。現在は、唯一の旧校舎現存建物として水戸商業高等学校のシンボルとなっている建物だが、丸屋根の鱗葺(石)が菱葺(銅板)変更され、外装部の再生箇所に損傷がある。
 年に1回毎年11月の約1週間公開されているので、その期間に予め学校に連絡すれば見学が可能。外観だけなら道路から見ることができる。
 
現存する『野いばら館』の内部の部屋割りは、正面玄関脇のロココ調の窓のある部屋が其々左側は応接室、右側が畳部屋の宿直室として使用された。これは竣功当時からの仕様である。
中央廊下を挟み左側大部屋が事務室、その奥が校長室、右側の部屋は倉庫そして右奥が保健室の使用であった。
尚、開校当時は左側大部屋は職員室、右側に事務室、奥が校長室としての配置であり、校長室仕様の奥部屋は他の室内装飾とは違った天井・腰壁の装飾になって居る。
左側の職員室として使用されていた大部屋は昭和30年後期に増築改装された際に現存の形状に変更され西側の引き上げ窓も全排し現代風の引戸型式に変更され事務室として使用された。
 現在の『野いばら館』の玄関部の六角形天井に施された漆喰レリーフは、現存する太田第一高等学校の講堂に残る二つの天井レリーフと相似形状で残る。
尚、この六角形の天井を飾るシャンデリア風の照明は当時のものでは無い。唯一、玄関昇降口の車止め天井に残る照明器具のみが往時の物である。また、野いばら館正面の門柱は、旧同窓生会館当時の物を現存保存され使用している。
 
 『野いばら館』『太田一高講堂』共に、基礎礎石として使用されているのは、笠間市原産の稲田石である。稲田石は駒杵が県土木技師の就任の間、当時の“建築雑誌”への紹介により関東一円の当時の近代建築物に使用されるように成った。
国会議事堂・東京駅他の大理石建築に使われている。
 旧水戸商業高校当時の正門は、常盤高校通りからの突き当たり正面に位置し、門柱奥に本校舎(現野いばら館)が在り、栄町通りから入ると遙かに本校舎正面玄関が見える位置に在った。
 当時の門柱は一部分が野いばら館脇に放置されている。正門と脇門の門扉は当時のまま現存し、現在の同窓会館正面入口を飾る校章デザインの入った鉾先型の扉部分のみであるが保存の為の枠が別に施されている。
 
== 関連項目 ==