「宇都宮錯乱」の版間の差分

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芳賀氏の反乱を鎮圧した宇都宮成綱は[[芳賀高経]](景高の子・高勝の弟)・[[芳賀高孝|高孝]](景高の弟)を助命して宇都宮城に抑留し、まだ幼児であった末子の[[宇都宮興綱|興綱]]に芳賀氏を継承させ<ref>旧来、興綱は成綱の弟とされていたが、大永4年4月1日(朔)に出されたと比定できる長南三河守(上総武田氏一族)宛に出された足利高基書状(「東京大学史料編纂所所蔵幸田成文氏旧蔵文書」・『[[戦国遺文]]』古河公方編543所収)には宇都宮忠綱の失脚後に「名代若輩(若輩の当主代理)」が擁立されたことが記されており、忠綱・俊綱(尚綱)・興綱を実の兄弟(成綱の子)とする系譜の方が正しいことになる(江田、2012年、P249-252)。</ref>、実弟の[[塩谷孝綱]]に芳賀氏の所領を管理させた。成綱は永正13年([[1516年]])、宇都宮氏の混乱鎮静を見届けるかのように病死する。
 
父の死によって、家督を継承し名実とともに当主となった忠綱は家中の統制と勢力の拡大に強めるが、宇都宮氏の家中全体が忠綱に服した訳ではなかった。[[大永]]3年([[1523年]])<ref>猿山合戦の年代については、通説では大永6年(1526年)とされているものの、『[[東州雑記]]』には大永3年と記され、前述の足利高基書状も大永4年4月段階で既に忠綱が失脚していること、更に大永3年から4年にかけて宇都宮・鹿沼で大規模な戦いがあったことを示す記録が存在することから、大永3年8月頃の出来事と推定される。なお、宇都宮忠綱発給文書も大永4年以降のものは確認されていない。(江田、2012年、P249-252)。</ref>、芳賀高経<ref>結城氏の下に奔った人物について、『結城家之記』は「芳賀兵衛大夫」、『宇都宮興廃記』は「芳賀宗弥五郎興綱」と記されているものの、前者は結城政朝の子で猿山合戦当時には成人していた[[結城政勝]]の筆記が原史料であり、かつ後者も前者からの引用を含んでいるとされており、前者の方が信憑性が高いとされる。そして、同時期の芳賀氏において「兵衛」を名乗ったのは芳賀高経(右兵衛尉)しか確認できない(江田、2012年、P239-240・246)。</ref>が[[結城政朝]]の下に奔り、政朝が高経を助けるために宇都宮へと兵を進めた。宇都宮忠綱はこれを迎え撃つものの、[[猿山合戦]]にて大敗すると、宇都宮城は高経に呼応する反忠綱派に占拠され、やむなく[[壬生綱房]]の[[鹿沼城]]へと落ち延びていった。芳賀高経は結城氏支援を背景にして、忠綱の末弟である芳賀興綱を宇都宮氏の新しい当主に押し立て、自分は芳賀氏当主の地位を取り戻すことに成功する。その後、失意の忠綱は病死するも、今度は成人した宇都宮興綱が芳賀高経と対立、[[天文 (日本)|天文]]年間に入ると高経は興綱を幽閉後に殺害し、更に僧となっていた[[宇都宮俊綱|俊綱]](後の尚綱、忠綱の弟で興綱の兄)を擁立する。その後、今度は宇都宮俊綱が芳賀高経を殺害するなど、宇都宮氏と芳賀氏の対立を軸とした家中の対立は永正・大永・天文と続き、宇都宮氏の衰退に拍車をかける結果となった。
 
== 脚注 ==