「ヨナタン・ネタニヤフ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m r2.7.2+) (ロボットによる 変更: de:Yonatan Netanyahu
Svmt (会話 | 投稿記録)
m 1967年のゴラン高原の記述修正、機甲部隊への転籍理由修正
31行目:
==生涯==
===軍人としての経歴===
[[画像:Jonathan Netanyahu gravestone.JPG|thumb|right|230px|[[ヘルツルの丘]]にあるヨナタン・ネタニヤフの墓]]1964年に彼はイスラエル国防軍(IDF)に入軍する。彼は最初[[空挺兵|空挺部隊]]に志願し、将校養成コースへ出世する。その後、空挺部隊における[[中隊]]の指揮官となった彼は[[六日間戦争]]中の[[1967年]][[6月5日]]、[[シナイ半島]]のウム・カティフでエジプト軍を敗退させた後、[[ゴラン高原]]の獲得寄与転戦した。その際、彼は敵の攻撃で負傷した味方の兵士を救助中、肘に傷を負ってしまう。
 
六日間戦争が終わり、軍人を退いた彼は[[ハーバード大学]]で学ぶため[[アメリカ合衆国|アメリカ]]へと戻る。しかし、わずか1年後、シナイ半島の領有をめぐって[[エジプト]]とのあいだに新たに[[第四次中東戦争|消耗戦争]]が勃発したことにより再び軍人として本国に戻ることになった彼は学業の場を[[エルサレム]]の[[ヘブライ大学]]に移した。
38行目:
1973年に起こった[[ミュンヘンオリンピック事件]]の際には[[イスラエル諜報特務庁]]とともに、[[レバノン]]における[[黒い九月|ブラック・セプテンバー]]のメンバーに対する奇襲攻撃にも参加している。
 
1973年からの[[第四次中東戦争]]でシリア軍の侵攻を食い止めるなどの功績をたたえられた彼は優れた指揮官に送られる軍人栄誉賞を受賞する。その後彼は自ら階級とは不釣合により甚大危険な任務消耗こなさなければならない生じた指揮官不足を埋めるべく重装甲部隊に志願する。そこ機甲部隊指揮課程を優秀な成績終了し、弱体化したバラク機甲旅団の指揮官として部隊資格を得た彼立て直しに成功する。1975年に再びサイェレト・マトカルに今度は重装甲部隊指揮官として復帰した。
 
[[1976年]][[7月4日]]、彼は[[ウガンダ]]のエンテベでの作戦中、敵の襲撃を受け命を落とした。この作戦は最終的には成功とされたが、彼の現場復帰後初めての作戦でもあり、彼の殉職をたたえ『ヨナタン作戦』と名づけられた。