「ボリス・ゴドゥノフ」の版間の差分

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| 画像サイズ = 220px
| 画像説明 =
| 在位 = [[1598年]][[1月7日]] - [[1605年]][[4月23日]] / [[ユリウス暦]][[4月13日]]
| 戴冠日 = [[1598年]][[2月21日]]
| 別号 = [[モスクワ大公]]
| 全名 = ボリス・フョードロヴィチ・ゴドゥノフ
| 配偶者1 = {{仮リンク|[[マリヤ・スクラートヴァ=ベリスカヤ|en|Maria Skuratova-Belskaya|label=マリヤ・スクラートヴァ=ベリスカヤ}}]]
| 子女 = [[クセニヤ・ゴドゥノヴァ|クセニヤ]]<br/>[[フョードル2世]]
| 王家 =
| 王朝 = [[ゴドゥノフ家]]
| 賛歌 =
| 父親 = フョードル・イヴァノヴィチ・ゴドゥノフ
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}}
 
'''ボリス・ゴドゥノフ'''({{lang|ru|Бори́с[[ロシア語]]:Бори́с Фёдорович Годуно́в}} / Boris[[英語]]:Boris Fyodorovich Godunov, [[1552年]] - [[1605年]][[4月23日]] / [[ユリウス暦]][[4月13日]])は、[[モスクワ・ロシア]]の[[ツァーリ]](在位:[[1598年]] - [[1605年]])。
 
== 生涯 ==
===権力の掌握===
[[ファイル:Feodor I of Russia - Project Gutenberg eText 20880.jpg|thumb|left|200px|フョードル1世]]
ボリスは[[コストロマ]]地方の下級貴族の出身で、先祖は14世紀に[[モスクワ大公国]]に臣従した[[タタール]]といわれる。
 
ボリスは[[1571年]]若い頃に[[オプリーチニ]]隊に所属し、[[1570年]]あるいは[[1571年]]に[[イヴァン4世]]の寵臣{{仮リンク|[[マリュータ・スクラートフ|en|Malyuta Skuratov}}]]の娘{{仮リンク|[[マリヤ・スクラートヴァ=ベリスカヤ|en|Maria Skuratova-Belskaya|label=マリヤ}}]]と結婚したことにより、権勢を得る道を開いた。
 
ボリスは有能な顧問官として[[イヴァン4世]]の信任厚く、[[1580年]]には大貴族に叙せられた

そのうえ、妹の[[イリナ・ゴドノヴァ|イリナ]]が皇子[[フョードル1世|フョードル]]の妃となる栄誉に恵まれ、[[1584年]]に義弟が[[フョードル1世]]として即位すると、その摂政団の一員となる。
 
さらに[[1588年]]までに大貴族の[[イヴァン・シュイスキー]]や[[ヴァシーリー4世|ヴァシーリー・シュイスキー]]などのライバルを一掃し、以後は単独で国政を指導しすることとなった。
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[[Image:Boris Godunov.jpg|thumb|left|200px|ボリス・ゴドゥノフ]]
[[ファイル:1899. Tzarevich Dmitry by M. Nesterov.jpg|thumb|right|200px|ドミトリー]]
[[1591年]]、フョードル1世の異母弟[[ドミトリー・イヴァノヴィチ (ウグリチ公)|ドミトリー]]が謎の死を遂げると、ボリスはヴァシーリー・シュイスキーにその死因調査命じた。
 
ヴァシーリー・シュイスキーは、ドミトリーがナイフを持って遊んでいたときに癲癇の発作を起こし、自分の持っていたナイフで喉を傷つけてしまった、と事故死として判断した。
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おまけにボリスの治世には災害が頻発し、凶作や飢餓、疫病は各地で猛威をふるうなど不運だった。
 
ボリスは対策立てたものの、農民や逃亡奴隷は暴動をおこし、国内は機能停止状態に追い込まれ、政府の対応策は全く意味をなさなかった。
 
[[1604年]]、死亡したはずの皇子ドミトリーを名乗る若者が現れ、[[ポーランド人]]やコサック、不満分子を従えて反乱を起こした。
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==人物像==
[[ファイル:Godunov map.jpg|thumb|right|200px|息子フョードルの勉強を見るボリス]]
[[File:Усыпальница Годуновыхъ.jpeg|thumb|left|200px|ボリス・ゴドゥノフの墓所(息子のフョードル2世も眠っている)]]
ボリス・ゴドゥノフは黒髪で長身と端正な容貌の持ち主で、猜疑心が強い性格だったらしい。
 
また、ボリスは西欧の文化に心酔しており、娘クセニヤや息子フョードルには西洋志向の高度な教育をうけさせ、イギリス貴族を子供たちの結婚相手にしようと考えていた時期もあった。
 
そのため、[[19世紀]]始めの歴史家[[ニコライ・カラムジン]]からは「[[オリバー・クロムウェル|クロムウェル]]のような性質の持ち主」と評されている。
 
その生涯を扱った作品としては、[[アレクサンドル・プーシキン|プーシキン]]の史劇『ボリス・ゴドゥノフ』と、それに着想を得た[[モデスト・ムソルグスキー|ムソルグスキー]]同名の[[歌劇]]『[[ボリス・ゴドゥノフ (オペラ)|ボリス・ゴドゥノフ]]』を作しており、これ現在では代表的である
 
==ドミトリーの殺害につい関して==
[[ファイル:Dmitrij church Uglich 9696.jpg|thumb|250px|ドミトリーの「殺害現場」に建てられた、血の上のドミトリー皇子教会]]
ボリス・ゴドゥノフがフョードル1世の弟ドミトリー暗殺した説は暗殺当初から、ドミトリーの死後すぐに人々の間で噂され、[[オペラ]]の題材にされるなど300年以上にわたり信じられてきた。
 
しかし、そのようなことをすればフョードル1世の摂政をしていた彼に疑いの目が向くのは必至であり、頭の良かった彼がわざわざそのようなことをするのか、というのが最近のロシア歴史家の見解であり、この暗殺説はあまり信じられなくなってきている。
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== 参考文献 ==
* デビッド・ウォーンズ著 / [[栗生澤猛夫|栗生沢猛夫]]監修『ロシア皇帝歴代誌』[[創元社]] 2001年7月 ISBN 4-422-21516-7
* [[栗生澤猛夫|栗生沢猛夫]]『ボリス・ゴドノフと偽のドミトリー 「動乱」時代のロシア』 [[山川出版社]] 1997年 ISBN 4-634-48140-5
* [[桑野隆]]『ボリス・ゴドゥノフ』(ありな書房,2000年)ISBN 9784756600660
 
 
{{先代次代|[[ロシア・ツァーリ国|ロシアの]][[ロシア君主一覧|ツァーリ]]|1598 - 1605|[[フョードル1世]]|[[フョードル2世]]}}