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== 経歴 ==
=== ボストン・レッドソックス ===
{{by|1967年}}1月の[[MLBドラフト]]で[[ボストン・レッドソックス]]から1巡目(全体4位)に指名を受け入団。{{by|1967年}}[[9月18日]]の[[ボルティモア・オリオールズ]]戦でメジャーデビュー。{{by|1971年}}[[9月12日]]の[[デトロイト・タイガース]]戦でメジャー初本塁打を記録。{{by|1972年}}にレギュラーを獲得し、前半戦で打率.310・15本塁打の成績で[[1972年のMLBオールスターゲーム|オールスターゲーム]]に初選出される。打率.293・22本塁打・61打点、リーグトップの9三塁打、共にリーグ2位の長打率.538・OPS.909を記録し、[[ルーキー・オブ・ザ・イヤー (MLB)|ルーキー・オブ・ザ・イヤー]]を満票で受賞<ref>{{Cite web|url=http://www.baseball-reference.com/awards/awards_1972.shtml#ALroy|title=1972 Awards Voting|work=Baseball-Reference.com|language=英語 |accessdate=2013年2月2日 }}</ref>[[ゴールドグラヴ賞]]も獲得し、[[最優秀選手 (MLB)|MVP]]の投票でも4位に入り、[[ゴールドグラヴ賞]]も獲得した。{{by|1973年}}は[[ニューヨーク・ヤンキース]]との開幕戦で満塁本塁打を含む2本塁打を放ち6打点を記録するなど、前半戦で18本塁打を放つが、後半戦で打率.196と不振に陥った。{{by|1974年}}は故障で出遅れ、復帰後は好調だったものの[[6月28日]]を最後に離脱し52試合の出場に留まる。{{by|1975年}}も故障で出遅れ、6月下旬に復帰。79試合の出場ながら打率.331・10本塁打・52打点を記録しチームの地区優勝に貢献。[[ワールドシリーズ]]3連覇中の[[オークランド・アスレティックス]]との[[1975年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]では打率.417と活躍し、チームは3連勝で8年ぶりのリーグ優勝。[[シンシナティ・レッズ]]との[[1975年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]では王手をかけられ、本拠地[[フェンウェイ・パーク]]で迎えた第6戦の延長12回裏に先頭打者として打席に立ち、レフトポールを直撃する[[サヨナラゲーム|サヨナラ]]本塁打を放つ。ポール際に飛んだ打球に向かって「入れ、入れ」とジェスチャーする姿は後に「シリーズ史上最高のゲーム」と呼ばれるようになった試合の象徴的なシーンだった。チームは第7戦で敗れてワールドチャンピオンを逃す。{{by|1977年}}は26本塁打・102打点、いずれもキャリアハイの打率.315・出塁率.402・106得点を記録。{{by|1978年}}はキャリアハイの157試合に出場し、20本塁打・88打点を記録。チームはヤンキースとのワンゲーム・プレイオフで敗れて地区優勝を逃した。{{by|1980年}}オフに[[フリーエージェント (プロスポーツ)|フリーエージェント]]となる。
 
=== シカゴ・ホワイトソックス ===
{{by|1981年}}[[3月18日]]に[[シカゴ・ホワイトソックス]]と契約。同年は[[メジャーリーグベースボール#ストライキ|ストライキ]]でシーズンが中断・短縮された影響で96試合の出場に留まるが、[[シルヴァースラッガー賞]]を受賞。{{by|1983年}}は6月中旬まで打率が.200前後と不調だったが、7月に打率.366・10本塁打・31打点を記録するなど後半戦で打率.319・17本塁打・56打点と調子を上げ、チームの地区優勝に貢献。オリオールズとの[[1983年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズ|リーグチャンピオンシップシリーズ]]では打率.176に終わり、チームは1勝3敗で敗退。MVPの投票では自己最高の3位に入った。{{by|1985年}}は[[9月6日]]の[[テキサス・レンジャーズ]]戦で7打点を挙げるなど、打率.238ながらキャリアハイの37本塁打・107打点を記録し、2度目のシルヴァースラッガー賞を受賞。{{by|1988年}}に[[リック・フェレル]]が持つ捕手としての最多出場試合1806のメジャー記録を40年ぶりに更新。同年は76試合の出場ながら19本塁打を記録し、3度目のシルヴァースラッガー賞を受賞。その後捕手としての出場試合を2226まで伸ばすが、{{by|1993年}}[[6月28日]]に解雇され、現役を引退。
{{by|1981年}}[[3月18日]]に[[シカゴ・ホワイトソックス]]と契約。[[1988年]]には、それまで[[リック・フェレル]]が持っていた捕手の最多出場記録(1806試合)を40年ぶりに更新、[[1993年]][[6月]]までに捕手史上最多の2226[[試合]]出場という記録をうちたてるが、その6日後に解雇され、そのまま現役引退する。
 
[[2000年]]、[[アメリカ野球殿堂]]入り。引退した3年後の[[1996年]]にホワイトソックスでの自身の[[野球の背番号|背番号]]'''72'''が、また殿堂入りした翌年の[[2001年]]にはレッドソックスで、在籍していたときの背番号'''27'''がそれぞれ[[野球界の永久欠番|永久欠番]]に指定された。
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== 獲得タイトル・表彰・記録 ==
* ルーキー・オブ・ザ・イヤー:1972年
* シルヴァースラッガー賞 3回:1981年, 19831985年, 1988年
* ゴールドグラヴ賞 1回:1972年
* [[MLBオールスターゲーム]]選出 11回:1972年 - 74年, 1976年 - 1978年, 1980年 - 1982年, 1985年, 1991年
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*'''太字'''はリーグ1位。
 
== 脚注 ==
{{reflist}}
 
== 出典・外部リンク ==