「軽騎兵」の版間の差分

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近代兵種としては[[ハンガリー王国]]で初めて用いられた[[ユサール]](ハサー、フザール、驃騎兵とも呼ばれる)を示すことが多いが、[[竜騎兵]]や[[猟騎兵]]や[[槍騎兵]]や[[コサック|コサック騎兵]]も含んだ広義の呼び方もある。現在では、軽装甲車両や[[装甲兵員輸送車]]、[[オフロードバイク]]を主に用い、[[偵察]]を主任務とする部隊を軽騎兵 (light cavalry) と呼ぶこともある。
 
[[ポーランド・リトアニア共和国]]の「[[ユサール#ポーランド騎兵|フサリア]]」は当初は軽騎兵であったが、16世紀には赤い[[ベルベット]]の上着に[[白銀]]色の重装備の甲冑をまとい長大な槍を携え、巨大な羽飾りを背中につけ突撃を行う重騎兵という独特の形態に発展し、18世紀まで活躍した。またポーランドのより軽量な槍騎兵である[[ウーラン]]は18世紀頃から復活した槍騎兵の主流として各国で模倣された。
 
==特徴==
軽騎兵は、[[甲冑]]のような[[防具]]を身につけないか、軽装備の防具のみを身につけ、[[弓 (武器)|弓]]・[[投槍]]や[[カービン]]、[[ピストル]]などの飛び道具の他、[[剣]]や[[刀]]、[[槍]]などを操り、戦闘を行う。他の騎兵部隊と同様に数が上回る敵に対して突撃をためらわない勇気が賞賛され、また[[略奪]]を頻繁に行うことから荒くれものの集団と同一視されていることが多い。無防備な集落や[[補給部隊]]の襲撃、略奪や敵情の偵察に多大な効果を上げたが、弓矢などの投射武器や[[槍|長槍]]を装備し、規律の取れた部隊に対しては必ずしも有利といえるわけではなかった。また、馬の管理は想像以上の手間がかかり、長期にわたる[[攻城戦]]では足手まといとなることが多かった。[[渡河戦]]では水や泥に足を取られて苦戦することもあり、船の輸送では[[疫病]]によって馬が大量死することも多い。
 
重騎兵と共通する点の1つは、部隊の育成に手間がかかることであり、一度壊滅的な打撃を受けた場合には建て直すのには長い時間がかかったことである。再編できるまでは兵力が大きく低下することもあった。熟練した乗り手になるには数年かかり、馬上で満足に戦闘が行えるようになるまではさらに数年がかかった。そのため、住民の大半が潜在的な軽騎兵である遊牧民社会以外では、その育成に非常な労力を要した。また、重騎兵と同じように時には、下馬して銃や弓、槍での戦列に加わることもあった。
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軽騎兵は古くから用いられており、[[ギリシャ神話]]に登場する[[ケンタウロス]]は馬を操り襲撃を行う[[中央アジア]]の遊牧民を[[モチーフ]]としている。都市文明地帯では馬に曳かれた[[チャリオット|戦車]]が東西を問わず[[青銅器時代]]から[[鉄器時代]]に用いられ、歩兵に対して多大な成果を挙げたが、自在な運動性に乏しく、数をそろえるのに多大な経済力を要することもあって、軽騎兵を主力とした非都市文明域の遊牧民の襲撃にはあまり有効な抵抗はできなかった。その後の戦車の廃止と騎兵の採用に不満を持つものは多く、東西を問わず蛮族と同じように馬に乗ることへの反発は大きかった。[[アレクサンドロス3世]](大王)は軽騎兵を効果的に用いることで知られており、直属の[[重騎兵]]([[ヘタイロイ]])と共に投入してたびたび戦況を逆転させている。[[ローマ帝国]]もガリア人やゲルマン人などの傭兵からなる軽騎兵を効果的に用い、偵察や敵部隊の追撃、迂回挟撃などに使ったが、戦場の主力は[[歩兵]]であり、あくまでも補助が目的であった。
 
ヨーロッパではローマ帝国が解体するにつれ、軍隊の規模は縮小し、騎兵を配下に持つことの重要性が増加した。騎兵の襲撃に有効に対抗できるだけの規律の取れた歩兵の大部隊を維持することが非現実的となり、規律もなく武器も貧弱な寄せ集めの歩兵に対しては、重騎兵の突撃や、部隊の弱点に器用に回りこんで投槍や弓矢で攻撃を仕掛ける軽騎兵の攻撃は大きな破壊力を持ったためである。維持に多額の金がかかる騎兵は、[[領主]]や大地主が騎兵指揮官となることが多かった。中世ヨーロッパでは重騎兵が兵科の花形となり、軽騎兵の地位は低下した。ただしヨーロッパでもロシアやポーランド、ハンガリーなどの東部の地域では平原が多く、中央アジアの騎馬民族の勢力にも近かった為、軽騎兵とそれを用いた戦術が発展しており、のちにコサックやウーラン、フザユサールなどの優秀な軽騎兵を生み出す事となる。
 
そもそもヨーロッパや東アジアなど騎兵がそろえにくかった文化圏では、馬を養いそれに騎乗して戦場に赴けること自体が裕福な身分である証であり、装備自体も財力に応じ重装備なものになり、馬の品種も機動力のある品種よりもそうした重量に耐えられる体力のある品種が重要視された為、軽騎兵自体が運用される事が少なかった。
 
遊牧地帯に近接しているため優秀な軽騎兵の徴募が容易だった中東では、軽騎兵が重要視され、常備兵の歩兵部隊と共に軍の柱となった。特に、その多くが[[テュルク系]]の遊牧民出身であった[[奴隷]]軽騎兵である[[マムルーク]]は、[[イスラーム]]社会において大きな地位を占め、結果としてイスラム圏の各地で多くのテュルク系の王朝が勃興する大きな要因となった。
 
近世には西ヨーロッパの各国でも次第に軽騎兵を傭兵に頼るのではなく、正規部隊として編成するようになっていった。[[フランス]]では[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の治世の間に、ハンガリー騎兵(ユサール)を基にして初の軽騎兵隊が編成され、それ以降フランスの騎兵隊には必ず軽騎兵が含まれるようになった。[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]軍の[[散兵]]に悩まされた[[プロイセン王国|プロイセン]]の[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ大王]]もまた、軽騎兵の運用に熱心であった。[[オーストリア継承戦争]]において敵の散兵に対し、ユサールを広く効果的に使用したのである。部隊の前方に展開し、偵察や敵の散兵線の破壊を行うユサールは、非常に有効な兵種であった。
 
[[ポーランド・リトアニア共和国]]の「[[ユサール#ポーランド騎兵|フサリア]]」は当初は軽騎兵であっユサールを起源としていたが、16世紀には赤い[[ベルベット]]の上着に[[白銀]]色の重装備の甲冑をまとい長大な槍を携え、巨大な羽飾りを背中につけ突撃を行う重騎兵という独特の形態に発展し、18世紀まで活躍した。またポーランドのより軽量な槍騎兵である[[ウーラン]]は18世紀頃から復活した槍騎兵の主流として各国で模倣された。
 
==関連項目==