「ヴォルグ・ザンギエフ」の版間の差分

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それからしばらくボクシングの表舞台から遠ざかっていたが、最愛の母の死をきっかけに[[アメリカ合衆国]]でのカムバックを決意。一歩のつてを頼るべく単身再来日し、一歩の家で寝泊りしながら鴨川ジムで再起に向けたトレーニングを行った。[[鴨川源二|鴨川会長]]の口利きで出国が決定した後、[[沢村竜平]]戦を控えていた一歩のスパーリングパートナーとなり、置き土産にデンプシー破りを実践して一歩をKO、アメリカに活動拠点を移していた浜団吉のもとへ旅立っていった。
 
渡米後は階級をジュニアライト級に上げ、日本時代の失敗を取り返すべく数多の激戦を勝ち抜いて[[世界ボクシング協会|WBA]]・[[世界ボクシング評議会|WBC]]・IBFの3団体で同時に世界ランキング1位を獲得。しかしあまり躍起強すぎなって勝ち抜いためが為に強過ぎる挑戦者として時の王者たちから敬遠されプロモーターからも客を呼べないとして挑戦の機会を与えられず、「無冠の帝王」と呼ばれていた。そんな折、IBF王者マイク・エリオットから、負傷により出場辞退した防衛戦の相手の代役として対戦を申しこまれ、準備期間がわずか1週間しかないにも関わらず要請を快諾する。
 
当日の試合では、試合開始直後に放ったホワイトファングにカウンターを合わせられダウンを奪われるも、それまで使う必要がなかったため封印していた飛燕を用いてエリオットを牽制し、ピンチを凌ぐ。ダメージから回復し試合勘を取り戻した後は、観客席にも緊張が走るほどの頭脳戦を展開、やがて調整不足の影響でスタミナが切れかかり[[チアノーゼ]]に陥るまで追い込まれるが、幾重にも張り巡らされた伏線の末に燕返しからのホワイトファングを叩き込み、強烈なダウンを与える。本来ならこれでKO勝ちになるはずだったが、エリオット陣営のセコンド<!--エリオット本人は知らない-->に買収されていたレフェリーによってエリオットが助け起こされ、試合再開となってしまう。これに対して抗議することなく再び試合に臨み、最後は本能に身を任せ正面から打ち合って再度マットに沈め、新世界王者となった。勝利者インタビューでは、[[アメリカ合衆国]]に対して[[英語]]で、日本の友に対して[[日本語]]で、亡き母に対して[[ロシア語]]でそれぞれ感謝の言葉を述べた。