「松平正容」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
21行目:
| 父母 = 父:[[保科正之]]、母:沖氏<br />養父:''[[保科正経]]''
| 兄弟 = [[保科正頼|正頼]]、[[保科正経|正経]]、[[保科正純|正純]]、'''松平正容'''<br/>媛姫([[上杉綱勝]]正室)<br/>摩須([[前田綱紀]]正室)、[[石姫]]([[稲葉正往]]正室)
| 妻 = 正室:竹姫([[阿部正武]]の娘)<br />継室:[[栄光院 (松平正容継室)|祐]](横山常定の娘)<br />側室:榎本氏、小林氏、篠沢氏、[[本妙院 (松平正容側室)|塩見氏]]<br />外嶋氏
| 子 = [[松平正邦|正邦]](長男)、[[松平正甫|正甫]](三男)、[[松平正房|正房]](五男)<br />'''[[松平容貞|容貞]]'''(八男)、[[松平容章|容章]](九男)<br />養姫([[松平定喬]]と婚約)、常姫([[前田宗辰]]正室)
| 特記事項 =
68行目:
 
栄光院(ゆらの方)はもとは側室であり、継室に上げられた。
 
正容は側室を家臣に下げ渡す、いわゆる拝領妻が多かった。継室となった栄光院の権勢を憚ってのことといわれる。
正容は側室を家臣に下げ渡す、いわゆる拝領妻が多かった。継室となった栄光院の権勢を憚ってのことといわれる。容貞の母、本妙院(伊知、塩見氏)は、14歳で側室となり、翌年容貞を出産。16歳で家臣・笹原忠一に下げ渡され、娘も生まれたが、容貞が兄たちの早世により嫡子となったため、強制的に離縁。当初離縁を拒否した笹原家は処分を受け、また本妙院は23歳で病没した。このことが『[[拝領妻始末]]』の原案となっている
このことが『[[拝領妻始末]]』の原案となっている。
 
{{会津松平家||1681年 - 1731年}}