「鈴木茂三郎」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
→‎来歴・人物: 一節追加。
44行目:
 
==来歴・人物==
===生い立ち===
[[愛知県]][[蒲郡市]]出身。鈴木家は[[旗本]]・竹本家の代官の家柄だったが、茂三郎の父の代にはすっかり零落しており、そのため幼少期の茂三郎は非常に苦学しながら中・高等教育を修め、旧制[[海城中学]]を経て[[1915年]]に[[早稲田大学]]専門部政治経済科を卒業した。
 
60 ⟶ 61行目:
1955年の[[社会党再統一]]にあたって、統一社会党の委員長となった鈴木は、[[社会党右派|右派]]の[[河上丈太郎]]派と協力しながら、穏健な路線を追求し、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]に代わる政権政党へと日本社会党を脱皮させようと努力した。しかし、[[1958年]][[第28回衆議院議員総選挙|総選挙]]での伸び悩み・[[1959年]][[第5回参議院議員通常選挙|参議院選挙]]での敗北を期に、左右両派の対立が再び党内で高まり、ついに[[1960年]]には西尾末広らが脱党して、民主社会党(のちの[[民社党]])を結成した。その責任をとり、委員長を辞任した。
 
===社会党左傾化===
その後の鈴木は、後輩の[[江田三郎]]が発表した[[構造改革|構造改革論]](江田ビジョン)に反対するなど、教条主義的な言動が目立つようになり、[[1962年]]には社会主義理論委員会委員長に就任して、「[[日本における社会主義への道]]」の策定に携わり、日本社会党の路線の左傾化を推し進めた。[[1967年]]に政界を引退した。1970年5月7日、77歳で死去。