「モーリス・ラヴェル」の版間の差分

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[[1920年]]1月、ラヴェルは[[レジオンドヌール勲章]]叙勲者にノミネートされたが、これを拒否したために物議を醸し、結果的に4月に公教育大臣と大統領によってラヴェルへの叙勲は撤回された。
 
1920年代のフランスでは、[[エリック・サティ]]を盟主とする「[[フランス6人組]]」の登場や、複調、無調、アメリカの[[ジャズ]]など、新しい音楽のイディオムの広まりによって、もはやラヴェルの音楽は時代の最先端ではなくなった。さかんに演奏旅行を行う一方、ラヴェルの創作活動は低調になり、そのピークである1923年には[[ヴァイオリンソナタ (ラヴェル)|ヴァイオリンソナタ]]のスケッチしか残せていない<ref>オレンシュタイン、前掲書、113ページ</ref>。
 
[[1928年]]、ラヴェルは初めてアメリカに渡り、4ヶ月に及ぶ演奏旅行を行った。[[ニューヨーク]]では満員の聴衆の[[スタンディングオベーション]]を受ける一方、ラヴェルは[[黒人霊歌]]やジャズ、摩天楼の立ち並ぶ町並みに大きな感銘を受けた。この演奏旅行の成功により、ラヴェルの名声は世界に鳴り響いた。同年、[[オックスフォード大学]]の名誉博士号を授与される。