「クローヴィス1世 (フランク王)」の版間の差分

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'''クロヴィス1世'''<ref>クロヴィスはフランス語読み。[[ラテン語|古代ラテン語]]表記の'''クローヴィス'''(Clovis)、ラテン語では'''クロードヴェクス'''({{lang-la|Chlodovechus}})または[[古高ドイツ語]]および[[中高ドイツ語]]表記の'''クロードヴェヒ'''、'''クロートヴィヒ'''(Chlodowech, Chlodwig)と長音される表記もみられる。現代[[フランス語]]の[[ルイ]](Louis)、現代[[ドイツ語]]の[[ルートヴィヒ]](Ludwig)に当たる。</ref>({{lang-fr-short|Clovis Premier}}, {{IPA-fr|klɔ.vis}}<small> [http://ja.forvo.com/word/clovis_ier/#fr 発音例]</small>, [[466年]] - [[511年]])は、[[メロヴィング朝]][[フランク王国]]の初代[[フランク王の一覧|国王]](在位[[481年]] - 511年)である。日本では大半の書籍<ref>各社の高校世界史関連の教科書・参考書、一般書など</ref>では、フランス語読みの「クロヴィス」でなく、英語ないしドイツ語読みに近い、'''クローヴィス1世'''と表記される。
 
クロヴィスは一夫多妻制の生活を送っていたが、妻の1人であった王妃[[クロティルダ (フランク王妃)|クロティルド]]の影響で、(形式的であるが)[[カトリック教会|キリスト教アタナシウス派]](カトリック教会)に改宗して、これを保護したのでガリアでの布教活動に大きな貢献があった。
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[[481年]]に即位したクロヴィスはライン川北岸の[[フランク人]]を統一、[[486年]]には[[ガリア]]北部を支配していた[[西ローマ帝国|西ローマ]]系軍閥[[シアグリウス|シャグリウス]]を[[ソワソン]]の戦いで破り、版図を一挙に[[ロワール川]]北部に拡大、旧ローマ属州ベルギカ・セクンダを支配下に治めた<ref>R.ミュソ=グラール、p.42。</ref>。さらにクロヴィスは妹のアウドフレドを[[東ゴート王国]]の[[テオドリック]]大王に嫁がせて同盟を固め、[[493年]]には[[ブルグンド王国]]の王女[[クロティルダ (フランク王妃)|クロティルド]]とソワソンで結婚した。
 
[[496年]]から[[497年]]にかけて、[[アラマンニ人]]との戦いの後、王妃クロティルドの薦めで[[カトリック教会|カトリック]]に改宗した。[[東ローマ帝国]]の人物との接触の長いフランク族の王クロヴィスは[[キリスト教]][[アタナシウス派|ニカイア派]]を信仰していた<ref>R.ミュソ=グラール、p.81。</ref>。この改宗はゲルマン民族諸王の中で初めて行われたカトリックへの改宗であった。一方[[西ゴート族]]や[[ヴァンダル族]]はすでにキリスト教に改宗していたが、その宗派は[[アリウス派]]であった。当時のガリア住民は大部分カトリックであったため、クロヴィスのカトリック改宗はガリア領内のローマ系市民との絆を強化するものであった。498年に[[ランス]]で戴冠式をおこなった。、
 
[[500年]]には[[ディジョン]]でブルグンド王国と戦い、[[507年]]には[[アルモリカ人]]の支援を得て[[ヴイエ]]<!--トゥールーズ近郊ではありません-->で[[西ゴート王国|西ゴート]]王[[アラリック2世]]を破った。この勝利で勢いをつけたクローヴィスはそのまま西ゴート王国の首都[[トゥールーズ]]まで進軍し、[[アキテーヌ]]の大部分を獲得した<ref>フランス史、p.137-138。</ref>。フランク王国の領土は[[北海]]から[[ピレネー山脈]]まで大きく拡張され、[[南フランス]]を支配していた西ゴート王国は[[イベリア半島]]に押し込められた。この遠征の後、クローヴィスは東ローマ皇帝[[アナスタシオス]]から[[執政官]]に任命された<ref>フランス史、p.138。</ref><ref>R.ミュソ=グラール、p.112。</ref>。[[508年]][[パリ]]に[[都]]を定め、[[セーヌ川]]左岸に聖ペテロとパウロに捧げた修道院(のちの[[サント=ジュヌヴィエーヴ修道院]])を築いた。その遺構は今も[[パンテオン (パリ)|パンテオン]]近くに[[クロヴィス塔]]として残る。